小部経典

ダンマパダ聖典

阿羅漢にして 正自覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

1. 対なるものの章

1.1 チャックパーラ長老の事例

諸々の法(事象)は、意“こころ”を先行“さきゆき”とし、意を最勝〔の因〕とし、意をもとに作られる。もし、汚れた意で、あるいは、語り、あるいは、為すなら、そののち、彼に、苦しみが従い行く――〔荷を〕運ぶ〔牛〕の足跡に、車輪が〔付き従う〕ように。

1.2 マッタクンダリの事例

諸々の法(事象)は、意“こころ”を先行“さきゆき”とし、意を最勝〔の因〕とし、意をもとに作られる。もし、清らかな意で、あるいは、語り、あるいは、為すなら、そののち、彼に、楽しみが従い行く――影が離れないように。

1.3 ティッサ長老の事例

「〔彼は〕わたしを罵った。〔彼は〕わたしを打った。〔彼は〕わたしに勝った。〔彼は〕わたしから奪った」〔と〕、しかして、彼らが、彼のことを怨むなら、彼らの怨みは静まることがない。

「〔彼は〕わたしを罵った。〔彼は〕わたしを打った。〔彼は〕わたしに勝った。〔彼は〕わたしから奪った」〔と〕、しかして、彼らが、彼を怨まないなら、彼らの怨みは止み静まる。

1.4 カーラ女夜叉の事例

まさに、〔怨みにたいし〕怨みをもって〔為すなら〕、諸々の怨みは、この〔世において〕、いついかなる時も、静まることがない。しかしながら、〔怨みにたいし〕怨みなきをもって〔為すなら〕、〔諸々の怨みは〕静まる――これは、永遠の法(真理)である。

1.5 コーサンビーの者たちの事例

しかしながら、他者たちは、〔わたしたちが滅び行く存在であることを〕識知しない。わたしたちは、ここに、〔自らが滅び行く存在であることを識知して、自らを〕制するのだ。しかして、彼らが、そこに、〔自らが滅び行く存在であることを〕識知するなら、そののち、諸々の確執“あらそい”は静まる。

1.6 マハーカーラ長老の事例

浄美の随観者として〔世に〕住する者(不浄のものを「美しく価値がある」と見る者)を、諸々の〔感官の〕機能(根)において〔自己が〕統御されていない者を、さらには、食について量を知らない者を、怠惰で精進に劣る者を、まさに、彼を、悪魔が打ち負かす――風が、力の弱い木を〔倒す〕ように。

不浄の随観者として〔世に〕住する者(不浄のものを「美しくなく価値がない」と見る者)を、諸々の〔感官の〕機能において〔自己が〕善く統御された者を、さらには、食について量を知る者を、信あり精進に励む者を、まさに、彼を、悪魔が打ち負かすことはない――風が、山の巌“いわお”を〔倒そうとして倒せない〕ように。

1.7 デーヴァダッタの事例

〔まさに〕その、無濁ならざる者が、黄褐色の衣“ころも”をまとうことになるなら、調御と真理から離れた者であり、彼は、黄褐色〔の衣〕(袈裟)に値しない。

しかしながら、彼が、汚濁を吐き捨て、諸戒において〔心が〕善く定められた者として存するなら、調御と真理を具した者であり、まさに、彼は、黄褐色〔の衣〕に値する。

1.8 サーリプッタ長老の事例

真髄ならざるものについて「真髄である」と思い、さらには、真髄について「真髄ならず」と見る者たち――誤った思惟(邪思惟)を境涯とする彼らは、〔法の〕真髄(実:真実・本質)に到達しない。

しかしながら、真髄を「真髄である」と知って、さらには、真髄ならざるものを「真髄ならず」と〔知って〕、正しい思惟(正思惟)を境涯とする彼らは、〔法の〕真髄に到達する。

1.9 ナンダ長老の事例

〔屋根が〕だらしなく覆われた家に、雨が漏れ入るように、このように、修められていない心に、貪り〔の思い〕は漏れ入る。

〔屋根が〕しっかりと覆われた家に、雨が漏れ入らないように、このように、善く修められた心に、貪り〔の思い〕は漏れ入らない。

1.10 チュンダ屠豚者の事例

悪しき〔行為〕を為す者(悪業を作る者)は、この〔世において〕憂い、死してのち憂う。〔すなわち〕両所において憂う。彼は憂い、彼は打ちのめされる――自己の行為(業)の汚染を見て。

1.11 ダンミカ在俗信者の事例

善き〔行為〕を為した者(功徳を作った者)は、この〔世において〕喜び、死してのち喜ぶ。〔すなわち〕両所において喜ぶ。彼は喜び、彼は喜びをきわめる――自己の行為の清浄を見て。

1.12 デーヴァダッタの事例

悪しき〔行為〕を為す者(悪業を作る者)は、この〔世において〕悩み苦しみ、死してのち悩み苦しむ。〔すなわち〕両所において悩み苦しむ。〔この世では〕「わたしは、悪を為した」と悩み苦しみ、〔死後は〕悪しき境遇(悪趣)に赴き、より一層、悩み苦しむ。

1.12 スマナー天女の事例

善き〔行為〕を為した者(功徳を作った者)は、この〔世において〕喜び楽しみ、死してのち喜び楽しむ。〔すなわち〕両所において喜び楽しむ。〔この世では〕「わたしは、善を為した」と喜び楽しみ、〔死後は〕善き境遇(善趣)に赴き、より一層、喜び楽しむ。

1.13 二者の道友の比丘の事例

たとえ、もし、益あること(経典の言葉)を多く語る者であるとして、それを〔現に〕為す者と成らないなら、怠る人である。他者たちの牛を数えている牛飼いのようなものであり、沙門(修行者)の資質を分け持つ者には成らない。

たとえ、もし、益あること(経典の言葉)を〔その〕僅かを語る者であるとして、法(教え)を法(教え)のままに行じおこなう者と成るなら、貪り(貪)と、怒り(瞋)と、迷い(痴)を捨棄して、心が善く解脱した正知の者となり、この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、〔両者ともに〕執取することなく、彼は、沙門の資質を分け持つ者と成る。

 対なるものの章が、第一となる。

2. 怠らないことの章

2.1 サーマーヴァティーの事例

〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)は、不死の境処である。怠ること(放逸)は、死魔の境処である。〔気づきを〕怠らない者たちは、死ぬことがない(常に目覚めている)。彼ら、〔気づきを〕怠る者たち――〔彼らは〕死んだままである。

怠らないことについて、賢者たちは、このように、「殊勝のものである」と知って、〔気づきを〕怠らないことに歓喜する――聖者たちの境涯に喜びある者たちとして。

彼らは、常恒の瞑想者たちであり、常に断固たる努力ある者たちである。〔常に気づきを怠らない〕慧者たちは、涅槃〔の境処〕を体得する――束縛からの〔心の〕平安という無上なるものを。

2.2 クンバゴーサカ長者の事例

奮起あり、気づき(念)あり、清らかな行為(業)あり、〔物事を〕真剣に為し、自制し、法(教え)によって生き、〔気づきを〕怠らない者であるなら、〔彼の〕福徳は〔自ずと〕増え行く。

2.3 チューラパンタカの事例

〔心の〕奮起によって、〔気づきを〕怠らないことによって、自制によって、さらには、調御によって、思慮ある者は、洲を作るがよい――それを、激流が押し流さなすことなきものとして。

2.4 愚かしい星祭りの鳴らしものの事例

愚者たちは、思慮浅き人たちは、怠ることに専念する。しかしながら、思慮ある者は、怠らないことに〔専念する〕――最勝の財を守るように。

怠ることに専念してはならない。欲望の喜悦や親愛〔の情〕に〔耽溺しては〕ならない。なぜなら、〔気づきを〕怠ることなく、〔常に〕瞑想している者は、広大なる安楽を得るからである。

2.5 マハーカッサパ長老の事例

賢者が、〔気づきを〕怠らないことによって、怠ることを除くとき、知慧(般若・慧)の高楼に登って、憂いなき者となり、憂いある人々を〔見る〕。山上に立つ者が、地上に立つ者たちを〔見る〕ように、慧者は、愚者たちを〔気づきの眼で〕注視する。

2.6 怠りあると怠りなき二者の道友の比丘の事例

怠りある者たちのなかにいながら怠らない者がいる。眠りについた者たちのなかにいながら多く起きている者がいる。駿馬が、力のない〔駄馬〕を〔置き去りにする〕ように、思慮深き者は、〔怠りある者たちを〕捨棄して行く。

2.7 マガの事例

マガヴァント(インドラ神)は、〔気づきを〕怠らないことによって、天〔の神々〕たちのなかの最勝〔の地位〕たるに至った。〔賢者たちは〕怠らないことを賞賛する。怠ることは、常に非難されてきた。

2.8 或るどこかの比丘の事例

怠らないことに喜びある比丘(行乞者)は、あるいは、怠ることに恐怖を見る者であり、〔心を〕束縛するものを、微細であれ、粗大であれ、〔燃え盛る〕火のように、焼き尽くしながら行く。

2.9 ニガマの住者ティッサ長老の事例

怠らないことに喜びある比丘は、あるいは、怠ることに恐怖を見る者であり、〔境涯の〕衰退は有りえず、まさしく、涅槃の現前にある。

 怠らないことの章が、第二となる。

3. 心の章

3.1 メーギヤ長老の事例

震えおののき、動揺し、守り難く、防護し難い心を、思慮ある者は、真っすぐに作り為す――矢作りが、矢を〔真っすぐにする〕ように。

水のなかの避難所から引き出され、陸のうえに投げ出された魚のように、この心は、悪魔の領域を捨棄しようにも、震えおののく〔だけのこと〕。

3.2 或るどこかの比丘の事例

〔心は〕制御し難く、軽やかで、〔自らの〕欲する所へと落ちて行く。心を調御することは、善きことである。調御された心は、安楽をもたらす。

3.3 或るどこかの焦慮している比丘の事例

〔心は〕極めて見難く、極めて精緻で、〔自らの〕欲する所へと落ちて行く。思慮ある者は、心を守るもの。守られた心は、安楽をもたらす。

3.4 サンガラッキタの甥の長老の事例

〔心は〕遠くへと行き、独り歩み、肉体なく、〔胸の〕洞窟(心臓)に臥している。彼ら、心を自制する者たち――〔彼らは〕悪魔の結縛から解脱するであろう。

3.5 チッタハッタ長老の事例

心が確立されていない者に、正なる法(真理)を識知しない者に、〔心の〕清らかさ(浄信)が揺らぐ者に、知慧は円満成就しない。

心から〔煩悩が〕漏れ出ない者に、心に混乱なき者に、〔規範化した〕善悪を捨棄した者に、〔眠らずに〕起きている者(惰眠を貪らない者)に、恐怖は存在しない。

3.6 五百の比丘の事例

〔脆く儚い〕水瓶“みずがめ”の如きこの身体“からだ”を〔あるがままに〕知って――〔騒がしく雑然とした〕城市の如きこの心を〔外壁堅固に〕据え置いて――知慧の武器をもって、悪魔を討つがよい。しかして、勝ち得たものを守るように。〔かつまた、戦果に〕固着なき者として存するように。

3.7 プーティガッタ・ティッサ長老の事例

まさに、長からずして、この身体は、地に臥すであろう。義(用途)のない木片のように捨て放たれ、識別〔作用〕(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)を離れたものとして。

3.8 ナンダ牛飼いの事例

敵が敵に、あるいは、また、怨みある者が怨みある者に、為すであろう、〔まさに〕その、〔悪しき〕こと――それよりも、より悪しきことを、誤った〔思い〕に向けられた心は、彼に為すであろう。

3.9 ソーレイヤの事例

母が、父が、あるいは、さらに、また、他の親族たちでも、彼に為さないであろう〔善きこと〕――それよりも、より勝“まさ”ることを、正しい〔思い〕に向けられた心は、彼に為すであろう。

 心の章が、第三となる。

4. 花の章

4.1 地についての言説を追い求める五百の比丘の事例

誰が、この地を征圧するのだろう――しかして、夜魔(閻魔)の世〔界〕を――天〔界〕を含む、この〔世界〕を。誰が、見事に説示された法(真理)の句を〔摘み取るのだろう〕――巧みな智ある者が、〔真理の〕花を摘み取るであろうように。

学びある者が、〔この〕地を征圧するであろう――しかして、夜魔の世〔界〕を――天〔界〕を含む、この〔世界〕を。学びある者が、見事に説示された法(真理)の句を〔摘み取るであろう〕――巧みな智ある者が、〔真理の〕花を摘み取るであろうように。

4.2 陽炎を〔心を定める〕行為の拠点とする比丘の事例

この身体を、泡沫“うたかた”の如きものと知って、陽炎“かげろう”の法(性質)あるものと〔常に〕正覚している者は、悪魔の諸々の花の矢(迷いの生存)を断ち切って、死魔の王の見えざるところ(彼岸)に行くであろう。

4.3 ヴィタトゥーバの事例

まさしく、まさに、花々を摘んでいる執着の意“おもい”ある人を、死魔は取って行く――眠りについた村を、大激流が〔流し去ってしまう〕ように。

4.4 パティプージカ・クマーリーの事例

まさしく、まさに、花々を摘んでいる執着の意ある人を、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕に満足しない者を、死神は〔思いのままに〕支配を為す。

4.5 物惜しみのコーシヤ長者の事例

また、蜜蜂が、色艶と香りある花を損なうことなく、味(蜜)を取って移り行くように、このように、牟尼(沈黙の聖者)は、村を歩むがよい。

4.6 パーヴェイヤ・アージーヴァカ(邪命外道)の事例

他者たちの諸々の過ちではなく、他者たちの為したことや為さなかったことではなく、まさしく、自己の、為した諸々のことを、さらには、〔為すべきなのに〕為さなかった諸々のことを、〔気づきの眼“まなこ”で〕注視するがよい。

4.7 チャッタパーニ在俗信者の事例

また、好ましく、色艶ある花に、香り無きものがあるように、このように、見事に語られた言葉は、為さずにいる者には、果の無きものと成る。

また、好ましく、色艶ある花に、香り有るものがあるように、このように、見事に語られた言葉は、為している者には、果の有るものと成る。

4.8 ヴィサーカーの事例

また、山積みの花から、多くの花飾りの連なりを作るように、このように、死すべき者(人間)として生まれたなら、多くの善きことを為すべきである。

4.9 アーナンダ長老の問いの事例

花の香りは、風に逆らって行くことがない。栴檀〔の香り〕は、あるいは、タガラ(伽羅)やマッリカー(ジャスミン)〔の香り〕は、〔風に逆らって行くことが〕ない。しかしながら、正しくある者たちの香りは、風に逆らって行く。正しい人は、全ての方角に香り行く。

栴檀、あるいは、また、タガラ、青蓮、しかして、ヴァッシキー(ジャスミン)――これらの香りある類“たぐい”のなかでは、戒の香りが、無上なるものである。

4.10 マハーカッサパ長老に施された〔行乞の〕鉢食の事例

すなわち、この、タガラと栴檀〔の香り〕であるが、この香りは、僅かばかりのもの。しかしながら、〔まさに〕その、戒ある者たちの香りは、最上のものであり、天〔の神々〕たちにおいて香りただよう。

4.11 ゴーディカ長老の完全なる涅槃の事例

彼ら、戒を成就した者たちの〔道を〕――〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)に住する者たちの〔道を〕――正しい了知による解脱者たちの道を――悪魔は知らない。

4.12 ガラハディンナの事例

塵芥場“ごみすてば”となり、廃棄された大道に、そこに、清らかな香りがあり、意“こころ”が喜びとする、〔美しい〕蓮華が生じるように――

このように、塵芥“ちりあくた”の生類(輪廻する有情)たちのなかにいながら、暗愚と成った〔迷える〕凡夫(無知蒙昧の徒)のなかにいながら、正自覚者(ブッダ)の弟子は、知慧によって輝きまさる。

 花の章が、第四となる。

5. 愚者の章

5.1 或るどこかの人の事例

〔眠れずに〕起きている者に、夜は長い。〔歩みつづけ〕疲れている者に、〔一〕ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)は長い。正なる法(真理)を識知することなき愚者たちに、輪廻〔の道〕は長い。

5.2 マハーカッサパの共住者の事例

〔道を〕歩んでいる者が、もし、自己と同等か、より勝“まさ”る者に到達しないなら、独り歩むこと(独行)を、断固として為すように。愚者のうちに、道友たること(真の友情)は存在しない。

5.3 アーナンダ長者の事例

「わたしには、子たちが存在する。わたしには、財が存在する」と、愚者は〔所有の思いに〕打ちのめされる。まさに、自己は、自己のものとして存在しない(思いのままにならない存在である)。どうして、子たちが〔自己のものとして存在するであろう〕。どうして、財が〔自己のものとして存在するであろう〕。

5.4 お縄破りの盗賊の事例

〔自己の〕愚かさを思い考える、その愚者は――彼は、それによって、まさしく、賢者でさえある。しかしながら、〔自らを〕賢者と思量する愚者――まさに、彼は、「愚者」と呼ばれる。

5.5 ウダーイ長老の事例

もし、愚者が、たとえ生あるかぎり、賢者に奉侍するとして、彼は、法(真理)を識知しない――匙“さじ”が、汁の味を〔識知しない〕ように。

5.6 三十のパーヴァーの比丘の事例

もし、識者が、寸時でさえも、賢者に奉侍するなら、すみやかに、法(真理)を識知する――舌が、汁の味を〔識知する〕ように。

5.7 スッパブッダ癩病者の事例

思慮浅き愚者たちは、自己という、まさしく、朋“とも”ならざるものと歩む――〔まさに〕その、辛き果と成る、悪しき行為(悪業)を為しながら。

5.8 耕作者の事例

それを為して苦しむなら、為したその行為(業)は、善きものではない――その〔行為〕の報いを、泣き叫びながら、涙顔で受けるなら。

5.9 スマナ花屋の事例

それを為して苦しまないなら、しかして、為したその行為は、善きものである――その〔行為〕の報いを、意“こころ”楽しく、満足して受けるなら。

5.10 ウッパラヴァンナー長老尼の事例

〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られないかぎり(悪業の報いが現われないうちは)、愚者は、〔自己の為す悪しき行為を〕蜜のように思いなす。しかしながら、〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られるとき(悪業の報いが現われるとき)、しかして、苦を受ける〔ことになる〕。

5.11 ジャンブカ長老の事例

月ごとに〔断食苦行の真似をして〕草の先端で食を受ける愚者――彼は、法(真理)を究めた者たちの、十六分の一にも値しない。

5.12 アヒ餓鬼の事例

まさに、〔愚者が〕為した悪しき行為は、〔搾りたての〕乳のように、今日のうちには固まらない。灰に覆われた火のように、〔徐々に〕燃えながら、愚者に従い行く。

5.13 サッティクータ餓鬼の事例

義(目的)ならざるもののために、愚者に知識が生まれる、まさしく、そのかぎりは、〔その知識が〕愚者の幸運を打ち砕く――彼の頭を打ち落としながら。

5.14 チッタ家長の事例

正しからざる者たちの〔中身のない〕修行を、〔愚者は〕求めるもの(形だけの打算的な修行を好んでする)。しかして、比丘たちのなかでは尊奉を――かつまた、諸々の居住のなかでは権力を――さらには、他者の家々では供養を。

「在家者たちと出家者たちは、両者ともに、まさしく、わたしの為したことを、思い考えよ。諸々の為すべきことや為すべきでないこと(諸々の社会的義務)については、何であれ、まさしく、わたしの支配するものとして存するように」――かくのごとく、愚者の妄想、欲求、そして、思量“おもいあがり”(慢)は、〔自ずと〕増え行く。

5.15 林の住者ティッサ沙弥の事例

まさに、他なるものとして、利得に縁あるものがあり、他なるものとして、涅槃に至るものがある(両者は別個のものである)。このように、この〔道理〕を証知して、覚者(ブッダ)の弟子たる比丘は、〔他者の〕尊敬を喜ばず、遠離〔の境地〕を増進するように。

 愚者の章が、第五となる。

6. 賢者の章

6.1 ラーダ長老の事例

〔隠された〕諸々の財宝〔の在処“ありか”〕を伝授する者のように、〔わが身の〕罪過に見ある者(無自覚の罪過を指摘してくれる者)を、彼を、見るなら、そのような賢者と、〔過誤を「過誤である」と正しく〕批判して説く思慮ある者と、親しくするように。そのような者と親しくしている者には、より勝ることが有り、より悪しきことは〔有りえ〕ない。

6.2 アッサジとプナッバスカの事例

〔他者を〕教え諭すように。〔真理を〕教え示すように。しかして、不当なことから〔自己を〕防護するように。まさに、彼は、正しくある者たちにとっては、愛しき者と成り、正しからざる者たちにとっては、愛しからざる者と成る。

6.3 チャンナ長老の事例

悪しき朋友たちとは、親しくしないように。最低の人たちとは、親しくしないように。善き朋友たちとは、親しくするように。最上の人たちとは、親しくするように。

6.4 マハーカッピナ長老の事例

法(真理)の喜びある者は、清らかな信ある心で、安楽に臥す。聖者によって知らされた法(真理)において、賢者は、常に喜び楽しむ。

6.5 パンディタ沙弥の事例

まさに、治水者たちは、水を誘導し、矢作りたちは、矢を調整し、大工たちは、木を矯正し、賢者たちは、自己を調御する。

6.6 ラクンダカバッディヤ長老の事例

一なる堅き巌“いわお”が、風に動かないように、このように、賢者たちは、諸々の非難や賞賛〔の声〕にたいし、〔心が〕動かない。

6.7 カーナの母の事例

また、深い湖が、清らかで濁りがないように、このように、賢者たちは、諸々の法(教え)を聞いて、〔心が〕清まる。

6.8 五百の比丘の事例

一切所において、まさに、正しい人たちは、〔欲を〕捨てる。正しくある者たちは、欲を欲するままに話さない。楽しいことに触れたとして、あるいは、しかして、苦しいことに〔触れたとして〕、賢者たちは、高下を見せない。

6.9 ダンミカ長老の事例

自己を因とせず、他者を因とせず、子を求めず、財を〔求め〕ず、国を〔求め〕ず、法(正義)ならざるものによって自己の繁栄を求めないなら、彼は、戒あり、知慧あり、法(正義)にかなう者として、〔世に〕存するであろう。

6.10 法の聴聞の事例

彼ら、彼岸に至る人たち――彼らは、人間たちのなかでは僅かの者たち。しかして、〔まさに〕この、他の人々は、まさしく、〔此〕岸を走り回っている(迷いの世界を輪廻している)。

しかしながら、彼ら、まさに、正しく告げ知らされた法(教え)において、法(教え)に転じ行く者たち――彼ら、〔迷いなき〕人たちは、極めて超え難い、死魔の領域を〔超えて〕、彼岸に行くであろう。

6.11 五百の来客の比丘の事例

賢者は、黒の法(教え)を捨棄して、白〔の法〕を修めるもの。家から家なきに至りて、〔世俗の者には〕喜び難き所である、遠離〔の境地〕において――

そこにおいて、〔真の〕喜びを求めるもの。諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、無一物となり、賢者は、諸々の心の汚れ(煩悩)から、自己を遍く清めるもの。

彼らの心が、〔七つの〕正覚の支分(七覚支)において、正しく、善く修められたなら――彼らが、執取の放棄〔という境地〕において、〔一切を〕執取せずして、喜びあるなら――彼らは、煩悩(漏)が滅尽した、光輝ある者たち、〔この〕世において、完全なる涅槃に到達した者たちである。

 賢者の章が、第六となる。

7. 阿羅漢の章

7.1 ジーヴァカの問いの事例

旅を終え憂いを離れた者に、一切所に解脱した者に、一切の拘束を捨棄した者に、苦悶〔の思い〕は見い出されない。

7.2 マハーカッサパ長老の事例

気づき(念)ある者たちは、〔家を〕出る。彼らは、家において喜ばない。白鳥たちが湖を捨棄して〔去り行く〕ように、彼らは、家々を捨棄する。

7.3 ベーラッタシーサ長老の事例

彼らに、蓄積“たくわえ”が存在せず、彼らが、食のことを遍知しているなら――彼らの、解脱の境涯が空“くう”にして、かつまた、相“そう”なきものであるなら――彼らの境遇(趣:死後に赴く所)は、虚空における鳥たちの〔足取り〕のように、捉えどころがない。

7.4 アヌルッダ長老の事例

彼の、諸々の煩悩が完全に滅尽し、しかして、〔彼が〕食について依存なき者であるなら――彼の、解脱の境涯が空にして、かつまた、相なきものであるなら――彼の境処(境地)は、虚空における鳥たちの〔足跡〕のように、捉えどころがない。

7.5 マハーカッチャーナ長老の事例

馭者“ぎょしゃ”によって善く調御された馬たちのように、彼の、諸々の〔感官の〕機能(根)が、寂止〔の境地〕(奢摩他・止)に至ったなら、思量(慢)を捨棄した煩悩なき者を、そのような者である彼を、天〔の神々〕たちさえも羨む。

7.6 サーリプッタ長老の事例

地に等しく、〔何ものにも〕遮られない者――インダ(インドラ神)の杭(城門に立てられた標柱)の如く、そのように善き掟“おこない”の者――泥土を離去した〔澄んだ〕湖のような者――そのような者に、諸々の輪廻は有りえない。

7.7 コーサンビーの住者ティッサ長老の沙弥の事例

彼の意“こころ”は、寂静と成る――言葉も、行為(業)も、寂静と〔成る〕――正しい了知による解脱者にして寂静なる者、そのような者であるなら。

7.8 サーリプッタ長老の事例

〔特定のものについて〕信なく、かつまた、作られざるもの(涅槃)について知あり、しかして、〔輪廻の〕鎖を断ち切った、その人――〔造悪の〕機会を打ち砕き、〔自利の〕願望を吐き捨てた者――まさに、彼は、最上の人である。

7.9 カディラ(アカシア)林のレーヴァタ長老の事例

もしくは、村であろうが、林であろうが――もしくは、低地であろうが、高地であろうが――そこに、阿羅漢(人格完成者)たちが住むなら、その地は、喜ぶべきものとなる。

7.10 或るどこかの婦女の事例

〔世俗の〕人が喜ばない所である、〔人里離れた〕諸々の林は、〔阿羅漢たちにとって〕喜ぶべきものである。貪欲を離れた者たちは、〔そこにおいて〕喜ぶであろう。彼らは、欲望〔の対象〕を求める者たちではない。

 阿羅漢の章が、第七となる。

8. 千の章

8.1 タンバダーティカ盗賊屠殺者(死刑執行者)の事例

たとえ、もし、千の言葉あるも、義(意味)なき句の呪文集であるなら、それを聞いて〔心が〕静まる、一つの、義(意味)ある句のほうが、より勝“まさ”っている。

8.2 バーヒヤ・ダールチーリヤ長老の事例

たとえ、もし、千の詩偈あるも、義(意味)なき句の呪文集であるなら、それを聞いて〔心が〕静まる、一つの、詩偈の句のほうが、より勝っている。

8.3 クンダラケーシー長老尼の事例

しかして、彼が、百の詩偈を語るとして、義(意味)なき句の呪文集であるなら、それを聞いて〔心が〕静まる、一つの、詩偈の句のほうが、より勝っている。

彼が、戦場において、百万の人間たちに勝利するとして、しかしながら、一つの自己に勝利するなら、まさに、彼は、最上の戦勝者である。

8.4 アナッタプッチャカ婆羅門の事例

まさに、自己に勝利することは、より勝っている。それが、もし、〔まさに〕この、他の人々〔に勝利すること〕であるとして、〔それよりも〕。自己が調御された人であるなら、常に自制された歩みある者であるなら――

そのような形態“ありかた”の人の勝利を、勝利ならざるものと為すのは、まさしく、天〔の神〕にあらず、ガンダッバ(音楽神)にあらず、梵〔天〕(ブラフマー神)を含む、悪魔にあらず(誰もできない)。

8.5 サーリプッタ長老の叔父の婆羅門の事例

彼が、百年のあいだ、月ごとに千〔回〕、祭祀をするとして、しかしながら、自己を修めた者たちの一者“ひとり”を、寸時でさえも供養するなら、まさしく、その供養は、より勝っている。それが、もし、百年の供犠であるとして、〔それよりも〕。

8.6 サーリプッタ長老の甥の事例

しかして、その人が、百年のあいだ、林のなかで火(アグニ神)に奉仕するとして、しかしながら、自己を修めた者たちの一者を、寸時でさえも供養するなら、まさしく、その供養は、より勝っている。それが、もし、百年の供犠であるとして、〔それよりも〕。

8.7 サーリプッタ長老の道友の婆羅門の事例

あるいは、祭祀されたものが、あるいは、供犠されたものが、それが何であれ、世において、功徳を期す者が、〔一〕年のあいだ、祭祀をするとして、その全てでさえも、〔正しい供養の〕四分の一に至らない。真っすぐに赴いた者(正行者)たちにたいする敬拝のほうが、より勝っている。

8.8 アーユヴァッダナ・クマーラの事例

〔真っすぐに赴いた者たちにたいする〕敬拝を戒“ならい”とし、常に先達を敬う者には、四つの法(性質)が増え行く。寿命、容貌(風格)、安楽、力量が。

8.9 サンキッチャ沙弥の事例

〔心が〕定められていない戒に劣る者であるなら、しかして、彼が、百年のあいだ、〔世に〕生きるとして、戒ある瞑想者の一日の生のほうが、より勝“まさ”っている。

8.10 カーヌコンダンニャ長老の事例

〔心が〕定められていない知慧浅き者であるなら、しかして、彼が、百年のあいだ、〔世に〕生きるとして、知慧ある瞑想者の一日の生のほうが、より勝っている。

8.11 サッバダーサ長老の事例

怠惰で精進に劣る者であるなら、しかして、彼が、百年のあいだ、〔世に〕生きるとして、断固として精進に励んでいる者の一日の生のほうが、より勝っている。

8.12 パターチャーラー長老尼の事例

〔物事の〕生滅〔の道理〕を見ずにいる者であるなら、しかして、彼が、百年のあいだ、〔世に〕生きるとして、〔物事の〕生滅〔の道理〕を〔常に〕見ている者の一日の生のほうが、より勝っている。

8.13 キサー・ゴータミーの事例

不死の境処を見ずにいる者であるなら、しかして、彼が、百年のあいだ、〔世に〕生きるとして、不死の境処を〔常に〕見ている者の一日の生のほうが、より勝っている。

8.14 バフプッティカー長老尼の事例

最上の法(真理)を見ずにいる者であるなら、しかして、彼が、百年のあいだ、〔世に〕生きるとして、最上の法(真理)を〔常に〕見ている者の一日の生のほうが、より勝っている。

 千の章が、第八となる。

9. 悪の章

9.1 チューレーカサータカ婆羅門の事例

善きことにおいて、急ぐように。悪から、心を防護するように。なぜなら、善を為すに遅き意“こころ”は、悪において喜ぶからである。

9.2 セイヤサカ長老の事例

もし、人が、悪を為すなら、繰り返し、それ(悪)を為さないように。それ(悪)について、欲〔の思い〕を為さないように。悪を積み重ねることは、苦痛である。

9.3 ラージャ・デーヴァディーターの事例

もし、人が、善を為すなら、繰り返し、それ(善)を為すように。それ(善)について、欲〔の思い〕を為すように。善を積み重ねることは、安楽である。

9.4 アナータピンディカ長者の事例

〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られないかぎり(悪業の報いが現われないうちは)、悪しき者もまた、幸“さいわい”を見る。しかしながら、〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られるとき(悪業の報いが現われるとき)、しかして、悪しき者は、諸々の悪(不幸)を見る。

〔自己の為した〕幸なる〔行為〕が煮られないかぎり(善業の報いが現われないうちは)、幸なる者(善人)もまた、悪(不幸)を見る。しかしながら、〔自己の為した〕幸なる〔行為〕が煮られるとき(善業の報いが現われるとき)、しかして、幸なる者(善人)は、諸々の幸を見る。

9.5 自制なき必需品〔の処理〕の事例

「それは、わたしに帰って来ないであろう」〔と〕、〔自己の為す〕悪しき〔行為〕を軽く考えてはならない。水瓶でさえも、水滴“”しずくの落下“したたり”で満ち溢れる。たとえ、少しずつでも、〔行為は〕蓄積され、愚者は、悪〔の報い〕に満ち溢れる。

9.6 ビラーラパーダカ長者の事例

「それは、わたしに帰って来ないであろう」〔と〕、〔自己の為す〕善き〔行為〕を軽く考えてはならない。水瓶でさえも、水滴の落下で満ち溢れる。たとえ、少しずつでも、〔行為は〕蓄積され、慧者は、善〔の報い〕に満ち溢れる。

9.7 マハーダナ商人の事例

僅かな隊商でありながら、大いなる財ある商人が、〔危険に満ちた〕恐怖の道を〔避ける〕ように――〔長く〕生きることを欲する者が、毒を〔避ける〕ように――諸々の悪を遍く避けるがよい。

9.8 クックタミッタ猟師の事例

もし、手に傷が存在しないなら、手で毒を運ぶことができる。傷なき者に、毒が従い行くことはない。〔悪を〕為さずにいる者に、悪は存在しない。

9.9 コーカ猟犬猟師の事例

彼が、汚れなき人を汚し、清浄で穢れなき人を〔穢す〕なら(怒りなき者に怒り、悪意なき者に悪意を抱くなら)、まさしく、その愚者に、悪は戻り来る――風に逆らって投げられた微細な塵が〔投げた者自身に戻って来る〕ように。

9.10 マニカーラ・クルーパカ・ティッサ長老の事例

或る者たちは、〔母〕胎に生起する。悪しき行為(悪業)ある者たちは、地獄に〔堕ちる〕。善き境遇(善趣)の者たちは、天上に行く。煩悩なき者たちは、完全なる涅槃に到達する。

9.11 三者の人の事例

空中にあらず、海中にあらず、山々の〔岩の〕裂け目に入っても〔見い出され〕ない。そこに立つ者が〔自己の為した〕悪しき行為から解き放たれる、その〔場所〕は、地上における〔どの〕地域も、見い出されない。

9.12 スッパブッダ・サキャの事例

空中にあらず、海中にあらず、山々の〔岩の〕裂け目に入っても〔見い出され〕ない。そこに立つ者を死魔が打ち負かすことなき、その〔場所〕は、地上における〔どの〕地域も、見い出されない。

 悪の章が、第九となる。

10. 棒の章

10.1 六群の比丘の事例

全ての者は、棒(武器)を恐れる。全ての者は、死に恐怖する。自己を喩えと為して(自らを引き合いにして)、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないように。

10.2 六群〔の比丘〕の事例

全ての者は、棒(武器)を恐れる。全ての者にとって、生命は愛しきもの。自己を喩えと為して(自らを引き合いにして)、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないように。

10.3 大勢の少年の事例

彼が、安楽を欲する諸々の生類を棒で害するなら、自己の安楽を求めつつ、彼は、死してのち、安楽を得ない。

彼が、安楽を欲する諸々の生類を棒で害さないなら、自己の安楽を求めつつ、彼は、死してのち、安楽を得る。

10.4 コンダダーナ長老の事例

誰にたいしても、粗暴なことを言ってはならない。言われた者たちは、あなたに言い返すであろう。なぜなら、諸々の激昂の言説は、苦痛であり、諸々の報いの棒(報復)が、あなたを襲うからである。

壊れた銅鑼“どら”のように、〔まさに〕その〔あなた〕が、もし、〔沈黙して〕自己を動かさないなら、あなたに、激昂〔の言説〕は見い出されず、〔まさに〕この、涅槃を得た者として、〔あなたは〕存在する。

10.5 斎戒の婦女たちの事例

牛飼いが、牛たちを棒でもって餌場に追い立てるように、このように、老“おい”も、死も、生ある者たちの寿命を追い立てる。

10.6 アジャガラ餓鬼の事例

しかして、諸々の悪しき行為(悪業)を為しつつ、愚者は、〔そのことを〕覚らない。思慮浅き者は、自らの〔為す〕諸々の〔悪しき〕行為(業)によって、火に焼かれた者のように悩み苦しむ。

10.7 マハーモッガッラーナ長老の事例

彼が、汚れ(怒りや憎しみなどの悪意)なく棒(武器)なき者たちを、棒(武器)でもって汚すなら、〔彼は、以下に示す〕十のなかのどれか一つの状況に、ごくすみやかに遭遇する。

粗暴なる〔苦痛の〕感受(受:知覚)、〔体力の〕衰退、あるいは、肉体の破壊、あるいは、また、重い病気、あるいは、心の散乱〔という状況〕を得るであろう。

あるいは、国王からの災禍、あるいは、凶悪な誹謗、あるいは、親族たちの完全なる滅尽、あるいは、諸々の財物の崩壊〔という状況〕を〔得るであろう〕。

あるいは、しかして、彼の家々を、浄化の火が焼き尽くす。知慧浅き者として、彼は、身体の破壊ののち、地獄に再生する。

10.8 バフバンディカ比丘の事例

裸身の行にあらず、結髪〔の行〕にあらず、泥〔を塗る行〕にあらず、あるいは、断食〔の行〕、野臥〔の行〕にあらず、塵や埃〔をかぶること〕、うずくまったまま〔刻苦〕精励することに〔あらず〕――疑惑を超えずにいる人間を清めるのは。

10.9 サンタティ大臣の事例

たとえ、もし、〔見てくれを〕十分に作り為したとして、こころ静かに歩むがよい。一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて、〔心が〕寂静で、〔善く〕調御された、〔正道〕決定の梵行者(禁欲清浄行の実践者)――彼は、婆羅門(聖職者)である――彼は、沙門(修行者)である――彼は、比丘(行乞者)である。

10.10 ピローティカ・ティッサ長老の事例

世において、どこの誰が、恥〔の思い〕で〔身を〕慎む人として、見い出されるというのだろう。彼は、〔他者の〕非難を気にかけない――賢馬が、鞭を〔気にかけない〕ように。

鞭を入れた賢馬のように、熱情ある者たちとして、〔無常の現実を〕畏怖する者たちとして、〔世に〕有るように。信によって、かつまた、戒によって、さらには、精進によって、〔心の〕統一(定:三昧の境地)によって、かつまた、法(真理)の判別によって、〔あなたたちは〕明知と行ないを成就した気づきの者たちとして、この、少なからざる苦しみを捨棄するであろう。

10.11 スカ沙弥の事例

まさに、治水者たちは、水を誘導し、矢作りたちは、矢を調整し、大工たちは、木を矯正し、善き掟“おこない”の者たちは、自己を調御する。

 棒の章が、第十となる。

11. 老の章

11.1 ヴィサーカーの道友たちの事例

いったい、何の笑いがあるというのだろう――何の喜びがあるというのだろう――〔世界が〕常に燃え盛るものとして存しているときに。暗黒に覆われているのに、〔あなたたちは〕灯明を求めようとしない。

11.2 シリマーの事例

見よ――様々に作り為された〔欲の〕幻影を――寄せ集めの、傷ある身体を――病んだ、妄想多きものを。それに、常久と止住は、〔何であれ〕存在しない。

11.3 ウッタラー長老尼の事例

老い朽ちた、この形態(色:肉体)は、病の巣となり、壊れ崩れるものとして〔存している〕。腐敗の肉身“からだ”は、朽ち果てる。まさに、死という終極あるのが、生命である。

11.4 大勢の高慢の比丘の事例

あたかも、秋に投げ捨てられた、これらの瓜のように、諸々の灰白色の骨があるなら、それらを見て、何の喜びがあるというのだろう。

11.5 ジャナパダカルヤーニー・ルーパナンダー長老尼の事例

肉と血を塗り付け、諸々の骨で作られた城――そこには、老と、死と、思量(慢)が、さらには、隠覆(覆)が、安置されている。

11.6 マッリカー王妃の事例

種々様々な〔彩色を施した〕諸々の王車は、まさに、老い朽ちる。しかして、肉体もまた、老へと近づき行く。しかしながら、正しくある者たちの法(真理)は、老へと近づき行くことがない。正しくある者たちは、まさに、正しくある者たちと、〔不滅の法を、相互に〕知らしめる。

11.7 ラールダーイ長老の事例

この少聞の人は、荷牛のように老い朽ちる。彼の諸々の肉は増え行くが、彼の知慧は増え行くことがない。

11.8 ウダーナ(感興の言葉)の事例

無数なる生の輪廻を、〔何も〕見い出すことなく、〔わたしは〕流転してきた――家の作り手を求めながら。生〔の輪廻〕は、繰り返し、苦しみである。

家の作り手よ、〔おまえは〕見られたものとして存在している(その正体は、あるがままに見られた)。ふたたび、〔おまえが〕家を作ることはないであろう。おまえの全ての梁“はり”は壊され、家の屋根は働きを為さない。心は、〔迷いの生存を〕形成する働き(行:生の輪廻を施設し造作する働き)を離れるに至った。諸々の渇愛の滅尽に到達したのだ。

11.9 マハーダナ長者の子の事例

梵行(禁欲清浄行)を歩まずして、若いときに財を得ずして、まさしく、魚の尽きた沼地にいる、老いた白鷺たちのように、〔彼らは〕痩せ衰える。

梵行を歩まずして、若いときに財を得ずして、諸々の過去のことを泣き悲しみながら、諸々の使い古された弓のように、〔彼らは、地に〕臥す。

 老の章が、第十一となる。

12. 自己の章

12.1 ボーディ王子の事例

もし、自己を、愛しいものと知るなら、それを、善く守られたものとして、守るがよい。〔若年と壮年と老年の〕三つのなかの、どれか一つの時期を、賢者は、〔眠らずに〕起きているもの(若年・壮年・老年という、人生における三つの区分の、すくなくとも、どれか一つにおいて、人は目覚めるべきである)。

12.2 ウパナンダ・サキャプッタ長老の事例

第一に、自己こそを、適所において確たるものとするがよい。しかして、他者に教示するがよい。賢者は、〔世事には〕汚されないもの。

12.3 パダーニカ・ティッサ長老の事例

他者に教示するように、もし、そのとおり、自己に為すなら(自ら実践するなら)、〔自己が〕善く調御された者は、まさに、〔他者を〕調御するであろう。なぜなら、〔真に〕調御し難きものは、まさに、自己なのだから。

12.4 クマーラカッサパの母の長老尼の事例

まさに、自己は、自己の主“あるじ”。まさに、他者の誰が、主として存するというのだろう。まさに、善く調御された自己によって、得難き主を得る。

12.5 マハーカーラ在俗信者の事例

まさに、自己によって為された悪が、自己から生じ自己から発生する〔悪〕が、思慮浅き者を打ち砕く――石から作られる金剛(ダイアモンド)が、宝珠を〔打ち砕く〕ように。

12.6 デーヴァダッタの事例

蔓草が、〔それに〕覆われたサーラ〔樹〕を〔打ち負かす〕ように、彼に、徹底して下劣な戒があるなら、彼は、〔彼の〕敵が彼に求めるように、そのとおり、自己に為す(自滅する)。

12.7 僧団分裂の画策の事例

諸々の善ならざること、そして、自己にとって諸々の益ならざることは、為し易い。それが、まさに、〔自己にとって〕益にもなり、善にもなることであるなら、それは、まさに、最高に為し難い。

12.8 カーラ長老の事例

阿羅漢(人格完成者)にして聖者たる、法(教え)によって生きる者たちの教えを、悪しき見解に依存して非難する、〔まさに〕その、思慮浅き者――〔彼は〕カッタカ〔草〕の諸果のように、自己を滅ぼすために、〔諸々の悪しき報いを〕結果する。

12.9 チューラカーラ在俗信者の事例

まさに、自己によって為された悪は、自己によって汚れ、自己によって為されなかった悪は、まさしく、自己によって清まる。清浄と清浄ならざるは、各自のこと。他者が他者を清めることはない(自己が自己を清める)。

12.10 アッタダッタ長老の事例

たとえ、他者の義(道理)が多くあっても、自己の義(道理)を失わないように。自己の義(道理)を証知して、自らの義(道理)を追求する者として存するように。

 自己の章が、第十二となる。

13. 世の章

13.1 青年の比丘の事例

下劣な法(教え)に親しまないように。怠り(放逸)と共に住まないように。誤った見解(邪見)に親しまないように。世〔俗〕の繁栄ある者として存さないように。

13.2 スッドーダナの事例

奮起するように。〔気づきを〕怠らないように。善き行ないの法(教え)を行じおこなうように。〔善き行ないの〕法(教え)を行じおこなう者は、安楽に臥す――この世において、さらには、他〔世〕において。

善き行ないの法(教え)を行じおこなうように。〔まさに〕その、悪しき行ないを行じおこなわないように。〔善き行ないの〕法(教え)を行じおこなう者は、安楽に臥す――この世において、さらには、他〔世〕において。

13.3 五百の〔あるがままの〕観察者の比丘の事例

泡粒を見るかのように、陽炎を見るかのように、このように、世〔界〕を〔常に〕注視している者を、死魔の王は見ない。

13.4 アバヤ王子の事例

来たれ、見よ――様々な〔彩色を施した〕王車の如き、この世〔界〕を。そこに、愚者たちは沈むが、〔あるがままに〕識知している者たちに、執着〔の思い〕は存在しない。

13.5 サンマッジャナ長老の事例

しかして、彼が、かつて〔気づきを〕怠っていても、彼が、のちに怠らないなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。

13.6 アングリマーラ長老の事例

彼の為した悪しき行為(悪業)が、善によって塞がれるなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。

13.7 機織り職人の娘の事例

暗愚と成ったのが、この世〔の人々〕である。ここに、数少ない者が、〔真実をあるがままに〕観察する――網から解き放たれた僅かな鳥が、天上に至るように。

13.8 三十の比丘の事例

白鳥たちは、太陽の道(大空)を行き、神通によって、〔聖賢たちは〕虚空を行く。慧者たちは、軍勢を有する悪魔に勝利して、〔この〕世から〔彼岸へと〕導かれる。

13.9 チンチャ・マーナヴィカーの事例

一なる法(真理)を超え行った、虚偽を説く人にとって、他世(来世)を否認する者にとって、為さずにいられる悪は存在しない。

13.10 同等のものなき布施の事例

まさに、吝嗇の者たちは、天の世〔界〕に行かない。まさに、愚者たちは、布施を賞賛しない。しかして、慧者は、布施を随喜しながら、まさしく、それによって、彼は、他所(来世)において、安楽の者と成る。

13.11 アナータピンディカの子カーラの事例

地における一なる王になることよりも、あるいは、天上に至ることよりも、一切世〔界〕の君主になることよりも、預流果(覚りの第一階梯)のほうが、優れている。

 世の章が、第十三となる。

14. 覚者の章

14.1 悪魔の娘の事例

彼の勝利は、失われることがない。誰であれ、世において、彼の勝利に行き着くことはない。彼を、覚者(ブッダ)を、終極なき境涯の者を、〔特定の〕境処なき者を、いかなる境処をもってして、〔あなたたちは〕導くというのだろう。

彼を誘い導くための執着と渇愛の網は、どこにも存在しない。彼を、覚者(ブッダ)を、終極なき境涯の者を、〔特定の〕境処なき者を、いかなる境処をもってして、〔あなたたちは〕導くというのだろう。

14.2 天からの降下の事例

彼ら、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を追求する慧者たち、離欲と寂止に喜びある者たち――彼らを、正覚者たちを、気づき(念)ある者たちを、天〔の神々〕たちさえも羨む。

14.3 エーラカパッタ龍王の事例

むずかしきは、人間〔の生〕の獲得あること。むずかしきは、死すべき者たちに生命あること。むずかしきは、正なる法(教え)の聴聞あること。むずかしきは、覚者たちの生起あること。

14.4 アーナンダ長老の問いの事例

一切の悪を為さないこと、善を成就すること、自らの心を遍く清めること――これは、覚者たちの教えである。

「忍耐と忍受は、最高の苦行である。涅槃は、最高〔の境地〕である」〔と〕、覚者たちは説く。まさに、出家者は、他者を害さない。他者を悩ましている者が、沙門と成ることはない。

〔他者を〕非難しないこと、害さないこと、しかして、戒め(波羅提木叉:戒律条項)において〔自己を〕統御すること、かつまた、食について量を知ること、なおかつ、辺境に臥坐すること、さらには、向上の心(瞑想)に努めること――これは、覚者たちの教えである。

14.5 喜びなき比丘の事例

諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貨幣の雨をもってしても、満足〔の思い〕は見い出されない。「諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なく、苦しみである」と識知して、賢者は――

彼は、天の諸々の欲望〔の対象〕にたいしてさえも、喜びには到達しない。渇愛の滅尽に喜びある者が、正自覚者(ブッダ)の弟子と成る。

14.6 アッギダッタ婆羅門の事例

恐怖に怯えた人間たちは、まさに、多くの帰依所(依存の対象)へと赴く――諸々の山へと、さらには、諸々の林へと、諸々の聖園や樹木や塔廟へと。

まさに、この帰依所は、平安にあらず。この帰依所は、最上にあらず。この帰依所を頼りにしても、一切の苦しみからは解放されない。

しかしながら、彼が、覚者(ブッダ)と、法(ダンマ)と、僧団(サンガ)と、〔これらを〕帰依所に赴いたなら、〔彼は〕四つの聖なる真理(四聖諦)を、正しい知慧によって見る。

〔すなわち〕苦しみを、苦しみの生起を、しかして、苦しみの超越を、さらには、苦しみの寂止へと至る聖なる八つの支分ある道(八正道)を。

まさに、この帰依所は、平安である。この帰依所は、最上である。この帰依所を頼りにして、一切の苦しみから解放される。

14.7 アーナンダ長老の問いの事例

得難きは、善き生まれの人(覚者)――彼は、一切所に生まれない。その慧者が生まれる所――その家は、安楽に満ち栄える。

14.8 大勢の比丘の事例

楽しきは、覚者たちの生起あること。楽しきは、正なる法(教え)の説示あること。楽しきは、僧団の和合あること。和合者たちの苦行は、楽しきもの。

14.9 カッサパ十力者(過去仏)の黄金の塔廟の事例

覚者たちを、もしくは、弟子たちであろうが、供養に値する者たちを供養するなら――戯論(分別妄想)を超え行き、憂いと嘆きを超えた者たちを〔供養するなら〕――

彼ら、涅槃に到達し、何ものも恐れない、そのような者たちを供養するなら――ここに、この功徳を究めることは、たとえ、何をもってしても、できないであろう(その功徳の量は計り知れない)。

 覚者の章が、第十四となる。  〔以上が〕第一の読誦分となる。

15. 安楽の章

15.1 親族の紛争の寂止の事例

まさに、〔わたしたちは〕極めて安楽に生きて行く――怨みある者たちのなかにいながら、怨みなき者たちとして。怨みある人間たちのなかにいながら、怨みなき者として、〔世に〕住む。

まさに、〔わたしたちは〕極めて安楽に生きて行く――病いある者たちのなかにいながら、病いなき者たちとして。病いある人間たちのなかにいながら、病いなき者として、〔世に〕住む。

まさに、〔わたしたちは〕極めて安楽に生きて行く――焦りある者たちのなかにいながら、焦りなき者たちとして。焦りある人間たちのなかにいながら、焦りなき者として、〔世に〕住む。

15.2 悪魔の事例

まさに、〔わたしたちは〕極めて安楽に生きて行く――〔まさに〕その、わたしたちには、何ものも存在しない(無一物である)。光音天〔の神々〕たちのように、喜びを食とする者たちとして、〔世に〕有る。

15.3 コーサラ王の敗北の事例

勝者は、怨恨を生み、敗者は、苦痛のうちに臥す。寂静なる者は、勝ち敗けを捨棄して、安楽のうちに臥す。

15.4 或るどこかの良家の息女の事例

貪欲(貪)に等しい火は、〔どこにも〕存在しない。憤怒(瞋)に等しい〔悪しき〕賽の目(罪悪)は、〔どこにも〕存在しない。〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)に等しい苦痛は、〔どこにも〕存在しない。寂静〔の境処〕の他に安楽は、〔どこにも〕存在しない。

15.5 或る在俗信者の事例

〔人間にとって〕諸々の飢え(日々空腹になること)は、最高の病である。諸々の〔迷いの生存を〕形成する働き(行:生の輪廻を施設し造作する働き)は、最高の苦痛である。このことを、事実のとおりに知って〔到達する〕、涅槃〔の境処〕は、最高の安楽である。

15.6 コーサラ〔国〕のパセーナディ〔王〕の事例

無病は、最高の利得である。知足は、最高の財産である。信頼は、最高の親族である。涅槃〔の境処〕は、最高の安楽である。

15.7 ティッサ長老の事例

遠離の味わいを飲み干して、さらには、寂止の味わいを〔飲み干して〕、懊悩なく悪なき者と成る――法(真理)の喜びの味わいを飲み干しながら。

15.8 サッカ(帝釈天)の事例

聖者たちと相見“まみ”えることは、善きことである。〔彼らと〕共に住むことは、常に、安楽である。愚者たちと相見えずにいることで、まさしく、常に、安楽の者として存するであろう。

まさに、愚者と集いあつまって歩む者は、長時にわたり、憂い悲しむ。愚者たちと共に住むのは、朋“とも”ならざる者(敵対者)と〔共に住む〕ように、一切時において、苦痛である。しかしながら、慧者は、親族たちの集いのように、共に住むのが安楽である。

それゆえに、まさに――

 しかして、慧者と、かつまた、知慧ある者と、さらには、多聞“たもん”の者と、重荷を運ぶを戒“ならい”とする者(忍耐強き者)と、〔善き〕掟“おこない”ある者と、聖者と、正しい人と、思慮深き者と、そのような者である彼と、親しくするように――星の道に、月が〔従い行く〕ように。  安楽の章が、第十五となる。

16. 愛しいものの章

16.1 三人の出家者の事例

道理ならざることに自己を結び付け、なおかつ、道理あることに〔自己を〕結び付けずにいる者――義(道理)を捨棄して、愛しいもの〔だけ〕を掴む者は、自己〔の道〕に専念する者たちを羨む。

愛しい者たち(愛着の対象)と、集いあつまってはならない。愛しからざる者たち(憎悪の対象)と、いついかなる時も、〔集いあつまってはならない〕。愛しい者たちと相見えずにいることは、苦しみである。しかして、愛しからざる者たちと相見えることは、〔苦しみである〕。

それゆえに、愛しい者を作らないように。愛しい者を失うことは、まさに、悪しきこと(苦しみ)である。彼らに、愛しい者と愛しからざる者(愛憎の対象)が存在しないなら、彼らに、諸々の拘束は見い出されない。

16.2 或るどこかの富豪の事例

愛しいものから、憂いが生まれ、愛しいものから、恐れが生まれる。愛しいもの〔という拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

16.3 ヴィサーカーの事例

愛情から、憂いが生まれ、愛情から、恐れが生まれる。愛情〔という拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

16.4 リッチャヴィの者たちの事例

喜悦から、憂いが生まれ、喜悦から、恐れが生まれる。喜悦〔という拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

16.5 アニッティガンダ童子の事例

欲望から、憂いが生まれ、欲望から、恐れが生まれる。欲望〔という拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

16.6 或るどこかの婆羅門の事例

渇愛から、憂いが生まれ、渇愛から、恐れが生まれる。渇愛〔という拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

16.7 五百の少年の事例

戒と見を成就し、法(正義)に依って立ち、真理を説く者を――自己の〔為すべき〕行為(業)を〔常に〕為している者を――人は、彼を、愛しき者と為す(彼は、誰からも愛される)。

16.8 或る不還者の長老の事例

「告げ知らされたもの」でないもの(涅槃)にたいする欲〔の思い〕が生じた者(涅槃への意欲を起こした者)として、かつまた、〔その〕意“おもい”に満たされた者として、〔世に〕存するように。しかして、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、心が縛られない者は、「上流にある者(欲界を離れた者)」と呼ばれる。

16.9 ナンディヤの事例

長き不在の人が、遠方から〔無事〕安穏に帰って来たなら、親族や朋友たち、そして、知人たちは、〔彼の〕帰還を喜ぶ。

まさしく、そのように、善を為した者(功徳を作った者)をもまた、この世から他〔世〕へと赴いたなら、諸々の善きこと(功徳)が迎え取る――親族たちが、愛しき者の帰還を〔喜ぶ〕ように。

 愛しいものの章が、第十六となる。

17. 忿怒の章

17.1 士族の娘ローヒニーの事例

忿怒“いかり”を捨棄するように。思量“おもいあがり”を捨棄し去るように。束縛するものの一切を超え行くように。彼に、名前と形態(名色:現象世界)について執着せずにいる無一物の者に、諸々の苦しみが従い行くことはない。

17.2 或るどこかの比丘の事例

迷走する車を〔調御して、暴走を〕阻止するように、彼が、まさに、生起した忿怒を〔調御して、平静を保持するなら〕、わたしは、彼を「馭者」と説く。他の人々は、手綱を掴む〔が、それだけのこと〕。

17.3 ウッタラー在俗女信者の事例

忿怒なきによって、忿怒に勝つように。善によって、善ならざるに勝つように。布施によって、吝嗇〔の心〕に勝つように。真理によって、偽りを説く者に〔勝つように〕。

17.4 マハーモッガッラーナの問いの事例

真理を語るように。怒らないように。乞われた者は、たとえ、少なくとも施すように。これらの三つの境位によって、天〔の神々〕たちの現前に至るであろう。

17.5 覚者の父の婆羅門の事例

彼ら、〔生類を〕害さず、常に身体によって統御された牟尼たち――彼らは、そこに至りて〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまない、不死なる境位へと赴く。

17.6 プンナー侍女の事例

常に〔眠らずに〕起きていて、昼夜に学び、涅槃を志す者たちの、諸々の煩悩は〔自ずと〕滅却に至る。

17.7 アトゥラ在俗信者の事例

アトゥラ(人名)よ、これは、過去からのことである。これは、今日だけのことではない――

 

〔人々は〕沈黙して坐す者を非難し、多く語る者を非難する。〔それどころか〕節度をもって語る者でさえも非難する。世において、非難されずにいた者は、〔どこにも〕存在しない。

一方的に非難された人、あるいは、一方的に賞賛された〔人〕は、有ったこともなく、有るであろうこともなく、今現在も見い出されない。

〔しかしながら〕生活に瑕疵なく、思慮あり、知慧と戒によって〔心が〕定められた者(禅定者)を、もし、彼を、識者たちが、日々に随知して、賞賛するとして――

ジャンブー川の金貨(高品質の砂金で鋳造した金貨)のような彼を、誰が、非難できるというのだろう。天〔の神々〕たちもまた、彼を賞賛し、梵〔天〕(ブラフマー神)からさえも、〔彼は〕賞賛される。

17.8 六群〔の比丘〕の事例

身体(身)の動乱を守り押さえるように。身体によって統御された者として存するように。身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを行じおこなうように。

言葉(口)の動乱を守り押さえるように。言葉によって統御された者として存するように。言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを行じおこなうように。

意“こころ”(意)の動乱を守り押さえるように。意によって統御された者として存するように。意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを行じおこなうように。

慧者たちは、身体によって統御された者たちであり、しかして、言葉によって統御された者たちである。慧者たちは、意によって統御された者たちであり、まさに、彼らは、完全無欠の統御者たちである。

 忿怒の章が、第十七となる。

18. 垢の章

18.1 牛の屠殺者の子の事例

今や、〔あなたは〕枯葉のようなものとして存している。しかして、夜魔(閻魔)の使者たちもまた、あなたを待っている。しかして、〔あなたは〕旅路の門に立っている。しかして、あなたには、〔旅の〕路銀さえも見い出されない。

〔まさに〕その〔あなた〕は、自己の洲(依り所)を作りなさい。すみやかに努めなさい。賢者と成りなさい。〔世俗の〕垢を取り払った〔あなた〕は、穢れなき者となり、天の聖なる境地へと近づき行くであろう。

しかして、今や、〔あなたは〕衰滅“ほろび”〔の面前〕に連れて行かれた者として存している。〔あなたは〕夜魔の現前に進み行く者として存している。途中、あなたに、住居は存在しない。しかして、あなたには、〔旅の〕路銀さえも見い出されない。

〔まさに〕その〔あなた〕は、自己の洲(依り所)を作りなさい。すみやかに努めなさい。賢者と成りなさい。〔世俗の〕垢を取り払った〔あなた〕は、穢れなき者となり、ふたたび、生と老〔の輪廻〕へと近づき行くことはないであろう。

18.2 或るどこかの婆羅門の事例

思慮ある者は、瞬間瞬間に、少しずつ、順次に、自己の垢を取り払うがよい――鍛冶屋が、銀の〔垢を取り除く〕ように。

18.3 ティッサ長老の事例

鉄から現起した垢(錆)が、それ(鉄)から出起して、まさしく、それ〔自身〕を喰い尽くすように、このように、諸々の自らの行為(業)は、罪行者〔自身〕を、悪しき境遇(悪趣)に導く。

18.4 ラールダーイの事例

不誦という垢あるのが、諸々の呪文である。無精という垢あるのが、諸々の家屋である。容貌には、怠慢という垢がある。〔心身を〕守る者には、怠り(放逸)という垢がある。

18.5 或るどこかの良家の子息の事例

婦女には、悪しき行ない(不品行)という垢がある。布施する者には、物惜しみという垢がある。まさに、垢という悪しき諸法(性質)がある――この世において、さらには、他〔世〕において。

その垢よりも、さらにひどい垢がある。無明という、最高の垢がある。比丘たちよ、この垢を捨棄して、無垢の者たちと成れ。

18.6 チューラサーリ比丘の事例

生き易きは、恥〔の思い〕なく、烏のように厚かましく、厚顔で、傲岸で、尊大で、〔心が〕汚染された者による、生である。

しかしながら、生き難きは、恥〔の思い〕あり、常に清よらかさを求め、陰鬱ならず、尊大ならず、清浄の生き方ある、〔常に真実を〕見ている者による、〔生である〕。

18.7 五者の在俗信者の事例

彼が、生き物を殺すなら、さらには、虚偽の論を語るなら、世において与えられていないものを取るなら、さらには、他者の妻のもとに行くなら――

さらには、その人が、穀物酒や果実酒などの飲み物に〔自らを〕束縛するなら、この者は、まさしく、ここに、〔この〕世において、自己の根元を掘り崩す。

君よ、人たる者よ、このように知りなさい。〔諸々の欲望の対象について〕自制なきことは、悪しき諸法(性質)である。貪り〔の思い〕、および、法(正義)ならざることが、あなたを、長きにわたり、苦しみによって害することがあってはならない。

18.8 ティッサ青年の事例

まさに、信あるままに、清らかな信あるままに、人は布施をする。しかして、彼(布施を受ける者)が、そこにおいて、他者たちの飲食に〔心を〕惑わす者として〔世に〕有るなら、彼は、昼であろうと、夜であろうと、〔心の〕統一(定:三昧の境地)に到達しない。

しかしながら、彼の、この〔迷い〕が断絶され、根元から壊滅し、完破されたなら、まさに、彼は、昼であろうと、夜であろうと、〔心の〕統一(定:三昧の境地)に到達する。

18.9 五者の在俗信者の事例

貪欲(貪)に等しい火は、存在しない。憤怒(瞋)に等しい捕捉者は、存在しない。迷妄(痴)に等しい網は、存在しない。渇愛に等しい川は、存在しない。

18.10 メンダカ長者の事例

他者たちの罪過は見易く、いっぽうで、自己の〔罪過は〕見難い。他者たちの諸々の罪過を、まさに、誇大に暴き立てる彼は、いっぽうで、自己の〔罪過を〕覆い隠す――狡猾“あこぎ”な賭博師が、〔悪しき〕賽の目を〔隠す〕ように。

18.11 ウッジャーナサンニ長老の事例

他者の罪過を随観し、常に譴責の想い(想:表象・概念)ある者――彼の、諸々の煩悩は増え行き、彼は、煩悩の滅尽から遠く離れている。

18.12 スバッダ遍歴遊行者の事例

まさしく、虚空に、足跡は存在せず、外“うわべ”〔の見てくれ〕のうちに、沙門は存在しない。戯論(空想)に喜びあるのが、〔世の〕人々である。如来(あるがまま行為者)たちは、戯論なき者(分別妄想なき者)たちである。

まさしく、虚空に、足跡は存在せず、外〔の見てくれ〕のうちに、沙門は存在しない。諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)は、常恒のものとして存在しない。覚者たちに、〔心の〕動揺は存在しない。

 垢の章が、第十八となる。

19. 法に依って立つ者の章

19.1 判決の大臣(裁判官)の事例

無理やり義(道理)を導くことで、それによって、法(正義)に依って立つ者と成るのではない。しかしながら、彼が、義(道理)、および、義(道理)ならざることを、両者ともに〔正しく〕判別できる賢者であるなら――

無理やりでなく、正しい法(真理)によって他者たちを導く、法(真理)を守る思慮ある者であり、〔彼は〕「法(正義)に依って立つ者」と呼ばれる。

19.2 六群〔の比丘〕の事例

多く語るだけで、それによって、賢者と成るのではない。〔心が〕平安で、怨みなく、恐れなき者が、「賢者」と呼ばれる。

19.3 エークダーナ煩悩滅尽者(阿羅漢)の事例

多く語るだけで、それだけで、法(教え)を保つ者と〔成るのでは〕ない。しかしながら、彼が、たとえ、僅かでも、聞いて〔そののち〕、身体によって法(教え)を見るなら、彼が、法(教え)を怠らないなら、まさに、彼は、法(教え)を保つ者と成る。

19.4 ラクンダカ・バッディヤ長老の事例

彼の頭が、白髪となったことで、それによって、彼は、長老(上座)と成るのではない。彼のばあい、年齢を重ねた〔だけのこと〕。〔彼は〕「無駄“やくたたず”の老いぼれ」と呼ばれる。

彼において、しかして、真理があり、かつまた、法(教え)があるなら、不害、自制、調御があるなら、まさに、彼は、垢(汚れ)を吐き捨てた慧者であり、「長老」と呼ばれる。

19.5 大勢の比丘の事例

嫉妬深く、物惜しみで、狡猾な者が、言葉遣いのみで、あるいは、蓮華の容貌あることで、形姿“みめ”善き人と成るのではない。

しかしながら、彼の、この〔迷い〕が断絶され、根元から壊滅し、完破されたなら、彼は、〔心の〕汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を吐き捨てた思慮ある者であり、「形姿善き者」と呼ばれる。

19.6 ハッタカの事例

掟なく、偽りを語っている者が、剃髪によって、沙門(修行者)と〔成るのでは〕ない。〔不浄の〕欲求と貪り〔の思い〕に関与している者が、どうして、沙門と成るのだろう。

しかしながら、彼が、諸々の微細なると粗大なる悪を、全てにわたり静めるなら、まさに、諸々の悪が静まったことから、〔彼は〕「沙門」と呼ばれる。

19.7 或るどこかの婆羅門の事例

他者たちに〔食を〕乞うだけで、それによって、彼は、比丘(行乞者)と成るのではない。一切の法(性質)を受持しても、それだけで、比丘とは成らない。

彼が、この〔世において〕、善も、悪も、〔両者ともに〕拒否して、梵行ある者(禁欲清浄行の実践者)となり、〔法を〕究めて、世を歩むなら、まさに、彼は、「比丘」と呼ばれる。

19.8 異教者の事例

迷乱の形質ある無知なる者が、〔ただの〕沈黙によって、牟尼(沈黙の聖者)と成るのではない。しかしながら、彼が、〔あたかも〕秤“はかり”を掴んでいるかのように、優れているものを〔正しく〕取って、賢者であるなら――

牟尼である彼は、諸々の悪を遍く避ける。それによって、彼は、牟尼と〔成る〕。彼が、世において、〔善と悪の〕両者を〔あるがままに〕思い考えるなら、それによって、〔彼は〕「牟尼」〔と〕呼ばれる。

19.9 漁師の事例

〔供犠で〕生き物たちを殺すことで、それによって、聖者と成るのではない。一切の生き物を殺さないことで、〔彼は〕「聖者」と呼ばれる。

19.10 戒等を成就した大勢の比丘の事例

〔形だけの〕戒や掟のみで、あるいは、また、〔伝え聞きの〕多くの真理によって、あるいは、しかして、〔心の〕統一(定:三昧の境地)を得ることによって、あるいは、〔人と〕離れて〔野に〕臥すことによっても、〔確信の思いは得られ〕ない。

「凡夫の慣れ親しむところにあらざる、離欲の安楽を、〔わたしは〕体得するのだ」〔と思っていても〕、比丘よ、煩悩の滅尽を得ずにいる者は、〔真の〕確信を体験した〔ことにはならない〕。

 法に依って立つ者の章が、第十九となる。

20. 道の章

20.1 五百の比丘の事例

諸々の道のなかでは、八つの支分ある〔聖なる道〕(八正道)が最勝である。諸々の真理のなかでは、四つの〔聖なる〕境処(四聖諦)が〔最勝である〕。諸々の法(教え)のなかでは、離貪〔の法〕が最勝である。しかして、二足の者(人間)たちのなかでは、眼ある者が〔最勝である〕。

これこそは、道である。見の清浄のための、他〔の道〕は存在しない。まさに、この〔道〕を、あなたたちは実践しなさい――悪魔〔の結縛〕を解き放つ、この〔道〕を。

まさに、この〔道〕を実践するあなたたちは、苦しみの終極を為すであろう。矢を抜き取ることを了知して、道は告げ知らされたのだ――わたしによって、あなたたちに。

まさに、あなたたちは、為すべきことを熱く〔為せ〕。如来たちは、〔道を〕告げ知らす者たちである。〔この道を〕実践する瞑想者たちは、悪魔の結縛から解脱するであろう。

20.2 無常の特相の事例

「諸々の形成〔作用〕(形成されたもの・現象世界)は、全てが常住ならざるものである(諸行無常)」と、知慧によって見るとき、しかして、苦しみについて厭離する――これは、清浄への道である。

20.3 苦痛の特相の事例

「諸々の形成〔作用〕(形成されたもの・現象世界)は、全てが苦しみである(一切皆苦)」と、知慧によって見るとき、しかして、苦しみについて厭離する――これは、清浄への道である。

20.4 無我の特相の事例

「諸々の法(事象)は、全てが自己ならざるものである(諸法無我)」と、知慧によって見るとき、しかして、苦しみについて厭離する――これは、清浄への道である。

20.5 パダーナカンミカ・ティッサ長老の事例

奮起する時に奮起せずにいる者、若く力があるのに怠け癖を具した者、思惟と意〔の働き〕が沈滞した怠惰なる者――怠け者は、知慧によって道を知ることがない。

20.6 スーカラ餓鬼の事例

言葉(口)を守り、意(意)によって善く統御された者が、しかして、身体(身)によって善ならざることを為さないなら、これらの三つの行為(業)の道を清め、聖賢によって知らされた道に達するであろう。

20.7 ポッティラ長老の事例

まさに、〔心の〕制止(瑜伽)あるがゆえに、英知は生まれる。〔心の〕制止なきがゆえに、英知の消滅がある。実体(有:存在)への〔道を〕、さらには、虚無(非有:無)への〔道を〕――この二種の道を〔あるがままに〕知って、英知が増え行くように、そのように、自己を、確たるものとするがよい。

20.8 五者の老練の比丘の事例

〔一本の〕木ではなく、林〔そのもの〕を断て。〔欲の〕林からは、恐怖が生まれる。比丘たちよ、林と〔その〕林叢“したばえ”とを、〔両者ともに〕断って、〔欲の〕林なき者たちと成れ。

まさに、女たちにたいする男の〔欲の〕林叢が、微塵ばかりでさえも、断たれずに〔残って〕いるかぎり、それだけで、彼は、まさしく、意が縛られた者となる――乳を飲む子牛が、母〔牛〕にたいするように。

20.9 スヴァンナカーラ長老の事例

自己への愛執〔の思い〕を断て――秋の蓮を、手で〔断ち切る〕ように。善き至達者(ブッダ)によって説示された涅槃〔の境処〕を、寂静の道こそを、育てよ。

20.10 マハーダナ商人の事例

「雨期のあいだ、〔わたしは〕ここで過ごすであろう。冬と夏には、ここで〔過ごすであろう〕」――かくのごとく、愚者は思い考えるが、〔すぐ目の前の〕障り(危険)を覚らない。

20.11 キサー・ゴータミーの事例

彼を、子供や家畜に夢中になり〔それらに〕執着の意“おもい”ある人を、死魔は取って行く――眠りについた村を、大激流が〔流し去ってしまう〕ように。

20.12 パターチャーラーの事例

子供たちは、〔わが身の〕救いのために存在するのではない。父親は、〔わが身の救いのために存在するのでは〕ない。眷属たちもまた、〔わが身の救いのために存在するのでは〕ない。死神に囚われた者の救い手は、親族たちのなかには存在しない。

この、義(道理)たる所以を知って、戒において〔自己が〕統御された賢者は、涅槃に至る道を、ごくすみやかに清めるであろう。

 道の章が、第二十となる。

21. 雑駁なるものの章

21.1 自己の過去の行為の事例

もし、少量なる安楽を完全に捨て去るがゆえに、広大なる安楽を見るなら、広大なる安楽を〔常に〕正しく見ている慧者は、少量なる安楽を捨て去るであろう。

21.2 鶏の卵を喰う女の事例

他者に苦痛を与えることで、自己の安楽を求める者――怨み〔の思い〕と持ちつ持たれつの彼は、怨み〔の思い〕から解き放たれない。

21.3 バッディヤの比丘たちの事例

まさに、その為すべきことであるが、〔それは〕捨てられ、いっぽうで、為すべきでないことが為されるなら、傲慢で〔気づきを〕怠る彼らの、諸々の煩悩は増え行く。

しかしながら、彼らが、善く努め励み、常に、身体の在り方(時々刻々の身体の状況)についての気づき(念)があるなら、彼らは、諸々の為すべきことを常に為す者たちであり、為すべきでないことには親しまない。気づきと正知の者たちの、諸々の煩悩は〔自ずと〕滅却に至る。

21.4 ラクンダカ・バッディヤの事例

母(渇愛)と父(「わたしは存在する」という思量)を打ち砕いて、しかして、二者の士族の王(常住論と断滅論)を〔打ち砕いて〕、国(認識作用と認識対象)を従者(喜びと貪り)と共に打ち砕いて、煩悶なき婆羅門は行く。

母(渇愛)と父(「わたしは存在する」という思量)を打ち砕いて、しかして、二者の聞経者(婆羅門)の王(常住論と断滅論)を〔打ち砕いて〕、虎のような第五のもの(疑惑の思い)を打ち砕いて、煩悶なき婆羅門は行く。

21.5 木材の車引きの子の事例

彼らに、昼も、夜も、常に、覚者(ブッダ)の在り方についての気づき(念)があるなら、〔彼らは〕ゴータマ(ブッダ)の弟子たちであり、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。

彼らに、昼も、夜も、常に、法(ダンマ)の在り方についての気づきがあるなら、〔彼らは〕ゴータマ(ブッダ)の弟子たちであり、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。

彼らに、昼も、夜も、常に、僧団(サンガ)の在り方についての気づきがあるなら、〔彼らは〕ゴータマ(ブッダ)の弟子たちであり、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。

彼らに、昼も、夜も、常に、身体の在り方についての気づきがあるなら、〔彼らは〕ゴータマ(ブッダ)の弟子たちであり、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。

彼らに、昼も、夜も、不害〔の実践〕に喜びの意“おもい”があるなら、〔彼らは〕ゴータマ(ブッダ)の弟子たちであり、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。

彼らに、昼も、夜も、修行〔の実践〕に喜びの意があるなら、〔彼らは〕ゴータマ(ブッダ)の弟子たちであり、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。

21.6 ヴァッジ・プッタカ比丘の事例

出家はし難く、〔出家の生活は〕喜び難きもの。諸々の在家〔の生活〕は住み難く、苦しきもの。同輩との共住は苦しく、苦しみに出会うのが旅行く者(遊行者)。それゆえに、しかして、旅行く者として存さず、かつまた、苦しみに出会う者として存さないように。

21.7 チッタ家長の事例

信あり、戒を成就し、福徳と財物を授与された者は、〔彼が〕親しくする、その地域その〔地域〕で、まさしく、そこかしこで、供養される者となる。

21.8 チューラスバッダーの事例

正しくある者たちは、遠くにいても、知れわたる――ヒマヴァント(ヒマラヤ)の山嶺のように。正しからざる者たちは、この場にいても、見ることができない――夜に放たれた諸々の矢のように。

21.9 エーカヴィハーリ長老の事例

独り坐し、独り臥し、独り、休むことなく歩みつつ、独り、自己を調御しながら、林の外れにて、喜びある者として存するがよい。

 雑駁なるものの章が、第二十一となる。

22. 地獄の章

22.1 スンダリー女遍歴遊行者の事例

事実ならざることを説く者は、地獄へと近づき行く。あるいは、また、彼が、為しておきながら、なおかつ、「〔わたしは〕為してない」〔と〕言うなら、〔彼もまた、地獄へと近づき行く〕。彼らは、死してのち、両者ともどもに等しきものと成る――下劣な行為(劣業)の人間たちとして、他所(来世)において。

22.2 悪しき行ないの果に責め苛まれる者の事例

黄褐色〔の衣〕(袈裟)を首にしながら、自制なく、悪しき法(性質)の者たちが、多くいる。彼ら、悪しき者たちは、〔自己の為した〕諸々の悪しき行為(悪業)によって、地獄に再生する。

22.3 ヴァッグムダー〔川〕の岸辺にいる比丘の事例

自制なく、戒に劣る者が、もし、国土において〔行乞の〕食を受ける、というのなら、熱せられた、火炎の如き鉄の玉を食べたほうが、より勝“まさ”っている(悪業を作って地獄に落ちるよりはまだましである)。

22.4 ケーマカ長者の子の事例

〔気づきを〕怠り、他者の妻を追い求める人は、四つの状況を体験する。〔すなわち〕善ならざる利得(悪しき報い)あること、欲するままに臥せないこと、第三に、非難〔を受けること〕、第四に、地獄〔に堕ちること〕である。

善ならざる利得ある〔男〕と、悪しき境遇〔の女〕とがいる。恐怖する〔男〕に、かつまた、恐怖する〔女〕に、喜びは僅か。しかして、王は、重き棒(罰)を課す。それゆえに、人は、他者の妻と慣れ親しまぬもの。

22.5 悪しき言葉の比丘の事例

誤って掴んだ茅〔の葉〕が、まさしく、手を傷つけるように、誤って執着された沙門の資質は、〔沙門その人を〕地獄へと引きずり落とす。

それが何であれ、緩慢な行為(業)であるなら、さらには、それが、汚染された掟であり、疑いある梵行(禁欲清浄行)であるなら、それは、大いなる果には成らない。

もし、為すべきなら、これを為し、断固として、これに努めるように。なぜなら、緩慢な遍歴遊行者は、より一層、塵を撒き散らすからである。

22.6 嫉妬〔の思い〕に支配された婦女の事例

為さずにいたのであるなら、悪を為さずにいたことは、より勝っている。のちに、為した悪が〔為した者を〕苦しめる〔からである〕。しかして、為したのであるなら、善を為したことは、より勝っている。それを為して苦しまない〔からである〕。

22.7 大勢の比丘の事例

辺境にある、内外共に守られた城市のように、このように、自己を守るがよい。〔いかなる〕時節であろうが、あなたたちを過ぎ行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。なぜなら、〔いかなる〕時節であろうが〔無駄に〕過ごした者たちは、地獄に引き渡され、憂い悲しむからである。

22.8 ニガンタ(ジャイナ教徒)の事例

〔彼らは〕恥ずべきでないところで恥じ、恥ずべきところで恥じない――誤った見解(邪見)を受持しながら、〔迷いの〕有情たちは、悪しき境遇(悪趣)に赴く。

恐怖なきところで恐怖を見る者たち、さらには、恐怖あるところで恐怖を見ない者たち――誤った見解を受持しながら、〔迷いの〕有情たちは、悪しき境遇に赴く。

22.9 異教者と弟子の事例

罪過なきものについて「罪過あり」と思い、さらには、罪過あるものについて「罪過なし」と見る者たち――誤った見解を受持しながら、〔迷いの〕有情たちは、悪しき境遇に赴く。

しかしながら、罪過あるものを「罪過あり」と知って、さらには、罪過なきものを「罪過なし」と〔知って〕、正しい見解(正見)を受持しながら、〔迷いなき〕有情たちは、善き境遇(善趣)に赴く。

 地獄の章が、第二十二となる。

23. 象の章

23.1 調御された自己の事例

象が、戦場において、弓から放たれた矢を〔忍受する〕ように、わたしは、〔他者からの〕誹謗の言葉を忍受するであろう。なぜなら、〔世の〕多くの人々は、戒に劣る者(性質の悪い者)なのだから。

調御された〔象〕を、〔人の〕集まるところ(戦場)へと、〔人間たちは〕導く。調御された〔象〕に、王は乗る。人間たちのなかで最勝の者は、〔自己が〕調御された者――彼は、〔他者からの〕誹謗の言葉を忍受する。

優れているのは、調御された騾馬“らば”たち、しかして、善き生まれのシンダヴァたち(シンドゥー産の良馬)、さらには、「クンジャラ」〔という名〕の巨象たちである。〔しかしながら〕それよりも優れているのは、調御された自己である。

23.2 ハッタアーチャリヤ(象の調教師)・プッバカ比丘の事例

まさに、これらの乗り物では、至らざる地(涅槃)に行くことはできない――善く調御された自己〔という乗り物〕で、調御された者が調御によって行くようには。

23.3 老い朽ちた婆羅門の子の事例

「財の守護者」という名のクンジャラ〔象〕がいる。辛辣なる破壊者で、防護し難く、捕縛されたなら、餌を食べない。クンジャラ〔象〕は、象の林を思念する。

23.4 コーサラ〔国〕のパセーナディ〔王〕の事例

惰眠の者として、さらには、大飯食いの者として、〔世に〕有るとき、眠りこけては、ごろ寝をする者となる。餌で養われた大豚のように、愚か者は、繰り返し、〔母〕胎へと近づき行く。

23.5 サーヌ沙弥の事例

かつて、この心は、〔気ままに〕歩みさすらう者として歩んできた――求める所から、欲する所へと、安楽“すき”なように。わたしは、今日、それ(心)を、根源から制御するであろう――鉤をもつ捕捉者(象使い)が、狂象を〔制御する〕ように。

23.6 パーヴェイヤカ象の事例

〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)に喜びある者たちと成れ。自らの心を守れ。難所から自己を引き抜け――汚泥にはまったクンジャラ〔象〕が、〔自らを引き抜く〕ように。

23.7 大勢の比丘の事例

彼が、もし、賢明なる道友を得るなら、共に歩む善き住者たる慧者を〔得るなら〕、一切の危難を征服して、わが意を得た気づき(念)の者となり、彼とともに、歩むがよい。

もし、賢明なる道友を得ないなら、共に歩む善き住者たる慧者を〔得ないなら〕、征圧した国を〔惜し気もなく〕捨棄して〔顧みない〕王のように、林のなかのマータンガ象のように、独り、歩むがよい。

独りある者の歩みのほうが、より勝“まさ”っている。愚者のうちに、道友たること(真の友情)は存在しない。しかして、諸々の悪しきことを為さず、〔俗事に〕思い入れ少なく、林のなかのマータンガ象のように、独り、歩むがよい。

23.8 悪魔の事例

義(事態)が生じたとき、道友たちがいるのは、安楽である。いかなるものによっても〔足ることを知り〕、満足〔の思い〕がある、というのなら、安楽である。生命の消滅あるときに、〔善き〕功徳があるのは、安楽である。一切の苦痛を捨棄することは、安楽である。

世において、母を敬うことは、安楽である。しかして、父を敬うことは、安楽である。世において、沙門の資質あることは、安楽である。しかして、梵(婆羅門)の資質あることは、安楽である。

老いてなお、戒あることは、安楽である。確立した信あることは、安楽である。知慧を獲得することは、安楽である。諸々の悪を為さないことは、安楽である。

 象の章が、第二十三となる。

24. 渇愛の章

24.1 カピラ魚の事例

〔気づきを〕怠るままに歩む人間の、渇愛〔の思い〕は増え行く――蔓草が〔生い茂る〕ように。彼は、あの〔世〕からあの〔世〕へと浮きただよう(輪廻する)――猿が、林のなかで果実を求めるように。

渇愛が、世における執着が、この卑しむべきものが、彼を打ち負かすなら、彼の、諸々の憂いは増え行く――雨を得たビーラナ〔草〕のように。

しかしながら、渇愛を、世における超え難きものを、この卑しむべきものを、彼が打ち負かすなら、彼から、諸々の憂いは落ち行く――蓮〔の葉〕から、水の滴“しずく”が〔落ちる〕ように。

〔わたしは〕それを、あなたたちに説くであろう。ここに集いあつまったかぎりの、あなたたち〔全て〕に、幸せ〔有れ〕。

 

渇愛の根を掘り崩せ――ウシーラ(ビーラナ草の根、香料として使う)〔の採取〕を義(目的)とする者が、ビーラナ〔草〕を〔掘る〕ように。悪魔が、繰り返し、あなたたちを、まさしく、流れが葦を〔打ちひしぐ〕ように、打ち砕くことがあってはならない。

24.2 若い雌豚の事例

また、根が無禍にして堅固であるなら、たとえ、切断された木でも、まさしく、ふたたび成長するように、また、このように、渇愛の悪習(随眠)が打破されていないなら、この苦しみは、繰り返し発現する。

彼に、意に適うもの(欲望の対象)へと流れ行く、激しい三十六の流れがあるなら、諸々の大いなる妄想が、諸々の貪欲〔の思い〕に依存し、悪しき見解を運び来る。

諸々の〔渇愛の〕流れは、一切所に流れ行く。〔貪欲の〕蔓草は、芽生えては止まり住む。しかして、その蔓草が生じたのを見て、知慧によって、〔その〕根を断て。

諸々の〔渇愛の〕流れがあり、かつまた、諸々の愛執〔の対象〕があり、人には、〔その原因となる〕諸々の悦意(満足の思い)が有る。彼らは、快楽に依存する者たちであり、安楽を求める者たちである。まさに、彼らは、生と老〔の輪廻〕へと近づき行く人たちである。

渇愛〔の思い〕で〔特定のものを〕偏重する人々は、捕縛された兎のように這い回る。束縛するもの(欲望の対象)に執着〔の思い〕ある有情たちは、長きにわたり、繰り返し、苦しみへと近づき行く。

渇愛〔の思い〕で〔特定のものを〕偏重する人々は、捕縛された兎のように這い回る。それゆえに、渇愛〔の思い〕を取り除くがよい――自己の離貪を望みつつ。

24.3 還俗した比丘の事例

〔まさに〕その、〔欲の〕林叢“したばえ”なき者となりながら、〔欲の〕林に向かう者――〔欲の〕林から解き放たれた者となりながら、まさしく、〔欲の〕林へと走り行く者――来たれ、見よ、その人を。〔欲の結縛から〕解き放たれた者となりながら、まさしく、〔欲の〕結縛へと走り行く。

24.4 家の結縛の事例

〔まさに〕その、鉄でできているもの、木製のもの、麻製のものも――慧者たちは、それを、堅固な結縛と言わない。諸々の宝珠や耳飾りにたいする執着〔の思い〕に染まったもの――子たちにたいする、そして、妻たちにたいする、〔まさに〕その、期待〔の思い〕なるもの――

重くのしかかり、緩やかではあるが、解き放ち難きもの――慧者たちは、これを、堅固な結縛と言う。〔彼らは〕これさえも断ち切って、遍歴遊行する――期待なき者たちとなり、欲望の楽しみを捨棄して。

24.5 ケーマー長老尼の事例

彼ら、貪欲〔の思い〕に染まった者たちは、〔渇愛の〕流れに沈む――蜘蛛が、自ら作った網に〔からまる〕ように。慧者たちは、これさえも断ち切って、行く――期待なき者たちとなり、一切の苦しみを捨棄して。

24.6 ウッガセーナの事例

過去における〔迷いの生存を〕解き放て(過去の記憶に振り回されない)――未来から〔迷いの生存を〕解き放て(未来にたいし自分勝手な期待をしない)――〔その〕中間(現在)における〔迷いの〕生存(有)を解き放て(今この瞬間に執着の対象を作らない)――彼岸に至る者となり。一切所に意“こころ”が解脱した〔あなた〕は、ふたたび、生と老〔の輪廻〕へと近づき行くことはないであろう。

24.7 練達の弓術師の事例

転倒した思考の人に、強き貪欲の者に、〔不浄の身体について〕「美しい(価値がある)」と随観する者に、渇愛〔の思い〕は、より一層、増え行く。まさに、この者は、〔自らを縛る、欲の〕結縛を〔より〕堅固に作り為す。

しかしながら、彼が、思考〔の働き〕の寂止に喜びある者であり、〔身体について〕「美しくない(価値がない)」〔とする想い〕(不浄想)を修めている、常に気づきある者であるなら、まさに、この者は、〔悪魔の結縛の〕終息を為すであろう。この者は、悪魔の結縛を断ち切るであろう。

24.8 悪魔の事例

究極〔の境地〕に赴き、畏怖“おそれ”なく、渇愛を離れ、穢れなき者は、諸々の〔迷いの〕生存の矢を断ち切った。これは、最後の積身“からだ”である(死後、涅槃に行く)。

渇愛を離れ、執取なく、語義を熟知し、かつまた、諸々の文字の配列と前後〔関係〕を知るなら、まさに、彼は、「最後の肉体ある者(解脱者)」「大いなる知慧の者」「大いなる人士たる者」と呼ばれる。

24.9 ウパカ・アージーヴァカ(邪命外道)の事例

わたしは、一切を征服する者、一切を知る者、一切の諸法(事象)に汚されない者として、〔世に〕存している。一切を捨棄する者、渇愛の滅尽〔という境地〕において解脱した者は、自ら証知して、〔もはや〕誰を、〔師と〕定めよう。

24.10 サッカ(帝釈天)の問いの事例

法(真理)の施しは、一切の施しに勝つ。法(真理)の味わいは、一切の味わいに勝つ。法(真理)の喜びは、一切の喜びに勝つ。渇愛の滅尽は、一切の苦しみに勝つ。

24.11 子のない長者の事例

諸々の財物は、思慮浅き者を打ち砕くが、まさに、彼岸を求める者たちを〔打ち砕くことは〕ない。思慮浅き者は、財物にたいする渇愛〔の思い〕のために、他者たちを〔打ち砕く〕ようにして、〔結局は〕自己を打ち砕く。

24.12 アンクラの事例

雑草という汚点あるのが、諸々の田畑である。貪欲(貪)という汚点あるのが、この〔世の〕人々である。それゆえに、まさに、貪欲から離れた者たちに施されたものは、大いなる果と成る。

雑草という汚点あるのが、諸々の田畑である。憤怒(瞋)という汚点あるのが、この〔世の〕人々である。それゆえに、まさに、憤怒から離れた者たちに施されたものは、大いなる果と成る。

雑草という汚点あるのが、諸々の田畑である。迷妄(痴)という汚点あるのが、この〔世の〕人々である。それゆえに、まさに、迷妄から離れた者たちに施されたものは、大いなる果と成る。

雑草という汚点あるのが、諸々の田畑である。欲求という汚点あるのが、この〔世の〕人々である。それゆえに、まさに、欲求から離れた者たちに施されたものは、大いなる果と成る。

 渇愛の章が、第二十四となる。

25. 比丘の章

25.1 五者の比丘の事例

眼(視覚機能)によって統御することは、善きことである。耳(聴覚機能)によって統御することは、善きことである。鼻(嗅覚機能)によって統御することは、善きことである。舌(味覚機能)によって統御することは、善きことである。

身体(身)によって統御することは、善きことである。言葉(口)によって統御することは、善きことである。意(意)によって統御することは、善きことである。一切所において統御することは、善きことである。〔このように〕一切所において〔自己が〕統御された比丘は、一切の苦しみから解き放たれる。

25.2 ハンサガータカ比丘の事例

手によって自制され、足によって自制され、言葉によって自制された、最上の自制者――〔心が〕定められ、内に喜びある者――〔常に〕満ち足りている、独りある者――彼を、〔賢者たちは〕「比丘」と言う。

25.3 コーカーリカの事例

彼が、口によって自制された比丘として、智慮によって語り、〔心が〕高ぶらず、義(道理)を〔明らかにし〕、しかして、法(真理)を明らかにするなら、彼の語るところは、〔蜜のように〕甘美である。

25.4 ダンマーラーマ長老の事例

法(真理)を喜びとし、法(真理)に喜びあり、法(真理)を〔常に〕弁別し、法(真理)を〔常に〕思念している比丘は、正なる法(真理)から衰退しない。

25.5 敵対者と慣れ親しむ比丘の事例

自らの利得(行乞で得た施物)を軽んじないように。他者たち〔の利得〕を羨む者として歩まないように。他者たち〔の利得〕を羨んでいる比丘は、〔心の〕統一(定:三昧の境地)に到達しない。

たとえ、もし、〔自らの〕利得が僅かであるとして、比丘は、自らの利得を軽んじることがない。休むことなく〔励み〕清浄の生き方ある彼を、まさに、天〔の神々〕たちは賞賛する。

25.6 パンチャッガダーヤカ婆羅門の事例

彼に、全てにあまねく、名前と形態(名色:現象世界)について、わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)が存在しないなら、しかして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまず、まさに、彼は、「比丘」と呼ばれる。

25.7 大勢の比丘の事例

彼が、慈愛〔の心〕に住する比丘であり、覚者(ブッダ)の教えに清らかな信ある〔比丘〕であるなら、〔彼は〕寂静の境処に到達するであろう――形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)の寂止という、安楽〔の境地〕に。

比丘よ、この舟〔の水〕を汲み出せ。あなたによって〔水を〕汲み出された〔舟〕は、軽やかに行くであろう。貪欲と憤怒とを〔完全に〕断ち切って、そののち、〔あなたは〕涅槃へと行くであろう。

五つ〔の束縛〕(修行者を欲界に縛る五つの束縛)を断つように。五つ〔の束縛〕(修行者を色界と無色界に縛る五つの束縛)を捨棄するように。くわえて、また、五つ〔の機能〕(信・精進・気づき・心の統一・知慧)を修めるように。五つの執着(貪欲・憤怒・迷妄・思量・見解)を超え行く比丘は、「激流を超え渡った者」と呼ばれる。

比丘よ、瞑想せよ。〔気づきを〕怠ること(放逸)があってはならない。欲望の対象(妙欲)において、あなたの心を喜ばせることがあってはならない。怠る者となり、銅の玉を飲み込んではならない。〔欲の炎に〕焼かれる者となり、「これは、苦しみだ」と泣き叫んではならない。

知慧なき者に、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)は存在しない。瞑想なき者に、知慧は存在しない。彼において、瞑想と知慧とがあるなら、まさに、彼は、涅槃の現前にある。

〔人のいない〕空家に入った寂静心の比丘には、〔常に〕正しく法(事象)を〔あるがままに〕観察している者には、人間ならざる喜びが有る(世俗の喜びを超えた喜びが存在する)。

〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)の生滅を〔時々刻々に〕触知するたびごとに、〔身体の状態をあるがままに〕識知している者たちにとっての、〔まさに〕その、不死なる喜悦と歓喜を、〔彼は〕得る。

そこで、このことは、知慧ある比丘にとって、この〔世において〕、最初〔に為すべきこと〕と成る。〔感官の〕機能(根)を守る者となり、〔欲を貪らない〕知足の者となり、しかして、戒め(波羅提木叉:戒律条項)において〔自己を〕統御する者となり――

休むことなく〔励み〕清浄の生き方ある、善き朋友たちと親しくせよ。友愛の生活ある者として存し、〔正しい〕行ないに巧みな智ある者として存するなら、そののち、歓喜多き者となり、苦しみの終極を為すであろう。

25.8 五百の比丘の事例

ヴァッシカー(ジャスミン)が、萎れた花々を解き放つ(落とす)ように、比丘たちよ、このように、貪欲と憤怒とを〔完全に〕解き放つように。

25.9 サンタカーヤ長老の事例

身体が寂静で、言葉が寂静で、〔心が〕善く定められた寂静なる者――世財を吐き捨てた比丘は、「寂静者」と呼ばれる。

25.10 ナンガラクラ長老の事例

自己によって自己を叱咤せよ。自己によって〔自己を〕反省せよ。〔まさに〕その〔あなた〕は、自己が守られ、気づき(念)ある者となる。比丘よ、〔あなたは〕安楽に住するであろう。

まさに、自己は、自己の主“あるじ”。まさに、他の誰が、主として存するというのだろう。まさに、自己は、自己の赴く所。それゆえに、自己を自制せよ――商人が、賢馬を〔調御する〕ように。

25.11 ヴァッカリ長老の事例

歓喜多き比丘は、覚者(ブッダ)の教えに清らかな信ある〔比丘〕は、寂静の境処に到達するであろう――形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)の寂止という、安楽〔の境地〕に。

25.12 スマナ沙弥の事例

彼が、まさに、青年でありながらも、比丘として、覚者(ブッダ)の教えに専念するなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。

 比丘の章が、第二十五となる。

26. 婆羅門の章

26.1 清らかな信多き婆羅門の事例

婆羅門よ、〔渇愛の〕流れを断て。〔道心堅固に〕努力して、諸々の欲望を除け。婆羅門よ、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)の滅尽を知って、〔あなたは〕作られざるもの(涅槃)を知る者として〔世に〕存するのだ。

26.2 大勢の比丘の事例

婆羅門が、〔対立する〕二つの法(事象)について、彼岸に至る者(善悪の彼岸にいる者)として〔世に〕有るとき、しかして、彼の、〔あるがままをあるがままに〕知っている者の、一切の束縛は〔自ずと〕滅却に至る。

26.3 悪魔の事例

彼に、彼岸が〔見い出されず〕、あるいは、此岸が〔見い出されず〕、彼岸と此岸が〔両者ともに〕見い出されないなら、懊悩を離れ、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.4 或るどこかの婆羅門の事例

〔世俗の〕塵を離れ〔林の中で〕坐す瞑想者を、為すべきことを為した煩悩なき者を、最上の義(目的)を獲得した者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.5 アーナンダ長老の事例

日は、昼に輝き、月は、夜に明からむ。士族は、武装して輝き、婆羅門は、瞑想にあって輝く。しかして、覚者(ブッダ)は、昼夜全てに、威光もて輝く。

26.6 或るどこかの婆羅門の出家者の事例

悪を拒否した者、ということで、「婆羅門」。行ないが平静なるがゆえに、「沙門」と呼ばれる。自己の垢を〔常に〕払っている者は、それゆえに、「出家者」と呼ばれる。

26.7 サーリプッタ長老の事例

婆羅門を打たないように。婆羅門は、彼(婆羅門を打つ者)に、〔怒りの思いを〕解き放たないように。婆羅門を傷つける者は、厭わしい。彼(婆羅門を打つ者)に、〔怒りの思いを〕解き放つなら、彼(婆羅門を打つ者)よりも、厭わしい。

諸々の愛しいものからの意“こころ”の慎みあるとき、婆羅門にとって、このことは、〔他の何よりも〕少なからず、より勝“まさ”っている。害する意が減るたびごとに、そのたびごとに、苦しみは、まさしく、静まる。

26.8 マハーパジャーパティー・ゴータミーの事例

彼に、身体(身)と言葉(口)と意(意)によって為された悪が存在しないなら、三つの状況(身・句・意の三業)によって〔自己が〕統御された者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.9 サーリプッタ長老の事例

彼から、正自覚者(ブッダ)によって説示された法(真理)を識知するなら、謹んで、彼を礼拝するがよい――婆羅門が、祭火を〔敬う〕ように。

26.10 結髪の婆羅門の事例

結髪にあらず、氏姓にあらず、出生にあらず――〔彼が〕婆羅門と成るのは。彼において、しかして、真理があり、かつまた、法(教え)があるなら、彼は、清らかな者であり、しかして、彼は、婆羅門と〔成る〕。

26.11 虚言の婆羅門の事例

思慮浅き者よ、あなたにとって、結髪が、何になるというのだろう。あなたにとって、皮衣が、何になるというのだろう。あなたには、内なる〔欲望の〕捕捉がある。〔あなたは〕外に〔見てくれを〕繕っている。

26.12 キサー・ゴータミーの事例

糞掃衣(ぼろきれ)を〔身に〕付ける人を、痩せ細り〔浮き出た〕血管が〔身体中に〕広がった者を、林のなかで、独り、瞑想している者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.13 或る婆羅門の事例

しかして、わたしは、〔婆羅門の〕胎から生じ、〔婆羅門の〕母から発生する者を、「婆羅門」と説かない。彼が、もし、〔執着ある〕所有者として〔世に〕有るなら、彼は、「ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)」という名で〔世に〕有る〔だけのこと〕。無一物で、無執取の者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.14 ウッガセーナ長者の子の事例

束縛するものの一切を断ち切って〔そののち〕、彼が、まさに、思い悩まないなら、執着を超え行く者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.15 二者の婆羅門の事例

紐(憤怒)を断ち切って、さらには、緒(渇愛)を〔断ち切って〕、手綱(煩悩)と共に、綱(六十二邪見)を〔断ち切って〕、閂(無明)を引き抜いた覚者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.16 アッコーサカ・バーラドヴァージャの事例

罵倒を、さらには、殴打と結縛を、彼が、怒ることなく忍受するなら、忍耐力があり、力ある軍隊〔に匹敵する者〕であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.17 サーリプッタ長老の事例

怒りなく、掟あり、戒あり、焦りなき者を――最後の肉体ある、調御者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.18 ウッパラヴァンナー長老尼の事例

蓮の葉にある水〔滴〕のように、錐“きり”の先にある芥子〔粒〕のように、彼が、諸々の欲望〔の対象〕に汚されないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.19 或るどこかの婆羅門の事例

彼が、まさしく、この〔世において〕、自己の苦の滅尽を覚知するなら、〔生の〕重荷を降ろし、〔世の〕束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.20 ケーマー比丘尼の事例

深遠なる知慧の者を、思慮ある者を、道と道ならざるものの熟知者を、最上の義(目的)を獲得した者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.21 パッバーラの住者ティッサ長老の事例

在家の者たち、および、家なき者たちと、〔その〕両者と交わらず、家なくして行く、求むこと少なき者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.22 或るどこかの比丘の事例

動くものたち、および、動かないものたちにたいし、〔一切の〕生類にたいし、棒(武器)を置いて、彼が、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.23 沙弥たちの事例

〔道を〕遮る者たちのなかにいながら遮ることなき者(一切にたいし敵意なき者)を、棒(武器)を取る者たちのなかにいながら涅槃に到達した者を、執取〔の思い〕を有する者たちのなかにいながら執取〔の思い〕なき者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.24 マハーパンタカ長老の事例

芥子〔粒〕が錐の先から〔落ちる〕ように、彼の、しかして、貪欲(貪)が〔打ち倒され〕、さらには、憤怒(瞋)が〔打ち倒され〕、思量(慢)、および、隠覆(覆)が打ち倒されたなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.25 ピリンダヴァッチャ長老の事例

粗野でなく、〔はっきりと意味を〕識知させる、真理の言葉を発し、それ(言葉)によって、誰であれ、傷つけることがないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.26 或るどこかの長老の事例

彼が、この〔世における〕、あるいは、長きものを、あるいは、短きものを、微細なると粗大なるものを、美なると美ならざるもの(清浄のものと不浄のもの)を、〔何であれ〕世において与えられていないものを取らないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.27 サーリプッタ長老の事例

この世において、さらには、他〔世〕において、彼に、諸々の願望(自己中心的な期待や思惑)が見い出されないなら、願望〔の思い〕なく、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.28 マハーモッガッラーナ長老の事例

彼に、諸々の執着が見い出されず、〔一切を〕了知して、疑惑なき者となるなら、不死への沈潜(涅槃)を獲得した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.29 レーヴァタ長老の事例

彼が、この〔世において〕、善も、悪も、両者ともに、執着〔の思い〕を超え行ったなら、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れ、清浄の者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.30 チャンダーバ長老の事例

月のように、垢(汚れ)を離れ、清浄で、清らかな信ある、濁りなき者を、喜びの生存(迷いの生存を喜びとする凡夫のあり方)が完全に滅尽した者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.31 シーヴァリ長老の事例

彼が、この、障害と悪路と輪廻と迷妄を超え行ったなら、〔激流を〕超え、彼岸に至った瞑想者であり、動揺なく、疑惑なく、〔一切を〕執取せずして、涅槃に到達した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.32 スンダラサムッダ長老の事例

彼が、この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、家なき者として遍歴遊行するなら、欲望の生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.33 ジャティラ長老の事例

彼が、この〔世において〕、渇愛〔の思い〕を捨棄して、家なき者として遍歴遊行するなら、渇愛の生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.34 ジョーティカ長老の事例

彼が、この〔世において〕、渇愛〔の思い〕を捨棄して、家なき者として遍歴遊行するなら、渇愛の生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.35 ナタプッタカ長老の事例

人間としての束縛を捨棄して、天〔の神〕としての束縛を超え行ったなら、一切の束縛について束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.36 ナタプッタカ長老の事例

喜悦も、不満も、〔両者ともに〕捨棄して、〔心の〕依り所(依存の対象)なく、〔心が〕冷静“おだやか”と成った者を、一切世〔界〕を征服する勇者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.37 ヴァンギーサ長老の事例

彼が、有情(生類)たちの死滅を、さらには、再生を、全てにわたり知ったなら、〔一切に〕執着なき者であり、善き至達者たる覚者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

天〔の神々〕たちが、ガンダッバ(音楽神)や人間たちが、彼の赴く所を知らないなら、煩悩が滅尽した者であり、阿羅漢(人格完成者)であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.38 ダンマディンナー長老尼の事例

彼に、過去も、未来も、〔その〕中間(現在)も、何ものも存在しないなら、無一物で、無執取の者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.39 アングリマーラ長老の事例

〔勇猛果敢な〕雄牛を、最も優れた勇者を、偉大なる聖賢を、〔一切の〕征圧者を、不動の沐浴者(梵行終了者)たる覚者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.40 デーヴァヒタ婆羅門の事例

彼が、過去(前世)の居住“いきざま”を知ったなら、さらには、〔死後に赴く〕天上と悪所(地獄)を〔両者ともに〕見るなら、しかして、生の滅尽を得た者であり、〔あるがままに〕証知して〔知慧が〕完成された牟尼であり、一切が完成された完成者を、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。