小部経典

3:ウダーナ

2.10. バッディヤの経(20)

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、アヌピヤーに住しておられます。〔郊外の〕アンバ林(マンゴーの果樹園)において。さて、まさに、その時、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤが、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、何度となく、「ああ、安楽だ」「ああ、安楽だ」と、感興〔の言葉〕を唱えました。

 まさに、大勢の比丘たちは、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤが、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、何度となく、「ああ、安楽だ」「ああ、安楽だ」と、感興〔の言葉〕を唱えているのを耳にしました。耳にして、彼らは、こう思いました。「友よ、まさに、疑いなく、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤは、喜ぶことなく、梵行(禁欲清浄行)を歩んでいる。彼が、かつて在家の者としてあったときの、王権の安楽があるので、彼は、それを思い浮かべつつ、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、何度となく、『ああ、安楽だ』『ああ、安楽だ』と、感興〔の言葉〕を唱えたのだ」と。

 そこで、まさに、大勢の比丘たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤは、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、何度となく、『ああ、安楽だ』『ああ、安楽だ』と、感興〔の言葉〕を唱えました。尊き方よ、まさに、疑いなく、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤは、喜ぶことなく、梵行を歩んでいます。彼が、かつて在家の者としてあったときの、王としての楽しみがあるので、彼は、それを思い浮かべつつ、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、何度となく、『ああ、安楽だ』『ああ、安楽だ』と、感興〔の言葉〕を唱えたのです」と。

 まさに、世尊は、或るひとりの比丘に語りかけました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、バッディヤ比丘に語りかけなさい。『友よ、バッディヤよ、教師が、あなたに語りかけます(あなたを呼んでいます)』」と。

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤに、こう言いました。「友よ、バッディヤよ、教師が、あなたに語りかけます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤは、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カーリーゴーダーの子の尊者バッディヤに、世尊は、こう言いました。

 「バッディヤよ、本当に、たしかに、あなたは、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、何度となく、『ああ、安楽だ』『ああ、安楽だ』と、感興〔の言葉〕を唱えたのですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。

 「バッディヤよ、では、あなたは、どのような義(道理)たる所以を正しく見ながら、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、何度となく、『ああ、安楽だ』『ああ、安楽だ』と、感興〔の言葉〕を唱えたのですか」と。「尊き方よ、わたしが、かつて在家の者としてあったときには、王権を振るいつつ、宮殿の内もまた、警護はしっかりと施され、宮殿の外もまた、警護はしっかりと施され、城市の内もまた、警護はしっかりと施され、城市の外もまた、警護はしっかりと施され、地方の内もまた、警護はしっかりと施され、地方の外もまた、警護はしっかりと施されていました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしは、まさに、このように警護され、保護されていたのですが、疲れ、恐れ、怯え、疑いある者として、恐れある者として、住していました。尊き方よ、ですが、まさに、わたしは、今現在、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、独りでありながら、恐れず、怯えず、疑いなく、恐れなく、思い入れ少なく、落ち着いていて、他者の施しで生活する者となり、鹿に成ったかの〔穏やかな〕心で住しています。尊き方よ、まさに、わたしは、この義(道理)たる所以を正しく見ながら、林に赴いてもまた、木の根元に赴いてもまた、空家に赴いてもまた、何度となく、『ああ、安楽だ』『ああ、安楽だ』と、感興〔の言葉〕を唱えたのです」と。

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 「彼に、諸々の怒り〔の思い〕が、〔心の〕内から存在しないなら、しかして、〔彼は〕かく有り〔かく〕無し〔の思い〕を超克した者であり、恐怖〔の思い〕を離れ去った、安楽で憂いなき彼を、天〔の神々〕たちは、見ようとして適わない(神を超えた存在である)」と。

 〔以上が〕第十〔の経〕となる。

 ムチャリンダの章が、第二となる。

 その〔章〕のための、摂頌となる。

 〔しかして、詩偈に言う〕「ムチャリンダ、王、棒とともに、尊敬、および、在俗信者とともに、妊婦、および、独り子、スッパヴァーサー、および、ヴィサーカー、カーリーゴーダーのバッディヤ、〔それらの十がある〕」と。