小部経典

3:ウダーナ

3 ナンダの章

3.1. 行為の報いから生じるものの経(21)

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティ(舎衛城)に住しておられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の園地(祇園精舎)において。さて、まさに、その時、或るひとりの比丘が、世尊から遠く離れていないところで、結跏(両足を交差する坐法)を組んで、身体を真っすぐに立てて、過去の行為の報い(業報)から生じる、強烈で、荒々しく、辛辣な、苦痛の感受を耐え忍びながら、気づきと正知の者として、打ちのめされることなく、坐っていたのです。

 まさに、世尊は、その比丘が、遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、過去の行為の報いから生じる、強烈で、荒々しく、辛辣な、苦痛の感受を耐え忍びながら、気づきと正知の者として、打ちのめされることなく、坐っているのを見ました。

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 「一切の行為(業)を捨棄する比丘にとって、過去に作った塵を〔常に〕払い落としている者にとって、我執なく〔心が〕安立“あんりゅう”したそのような者にとって、人と話をする義(必要)は存在しない(無意味な話はしない)」と。

 〔以上が〕第一〔の経〕となる。