小部経典

3:ウダーナ

3.10. 世の経(30)

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住しておられます。ネーランジャラー川の岸辺の菩提樹の根元において、最初の正覚者として。さて、まさに、その時、世尊は、七日のあいだ、結跏一つで坐しておられたのです。解脱の安楽の得知者として。

 そこで、まさに、世尊は、その七日が過ぎて、その〔心の〕統一から出起して、覚者の眼でもって世〔のあり様〕を顧みました。まさに、世尊は、覚者の眼でもって〔世のあり様を〕顧みつつ、有情たちが無数の熱苦によって熱せられているのを、さらには、無数の苦悶によって遍く焼かれているのを見ました。貪り(貪)から生じる諸々のものによってもまた、怒り(瞋)から生じる諸々のものによってもまた、迷い(痴)から生じる諸々のものによってもまた。

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 「接触(感覚)〔の快楽〕に打ち負かされ、熱苦を生じた、この世〔の人々〕は、自己みずから、〔自己の〕病を説く。まさに、あれやこれやと思い考えたところで、〔現実の〕それは、その〔思い〕とは〔常に〕他のものと成る。

 生存〔の快楽〕に執着し、生存〔の快楽〕に打ち負かされた、〔この〕世〔の人々〕は、〔自らの思うところとは常に〕他の状態になる者であり、生存〔の快楽〕だけを喜ぶ。それを、〔人が〕喜ぶなら、それは、恐れである。それを、〔人が〕恐れるなら、それは、苦しみである。しかして、まさに、〔迷いの〕生存を捨棄するために、この梵行が住される(実践される)。

 まさに、彼らが、沙門たちであろうと、婆羅門たちであろうと、誰であれ、生存(有:実体)によって〔実体的に〕生存の解脱を言ったなら、『彼らは、〔その〕一切が〔常住論者であり〕、〔迷いの〕生存から解脱していない』と〔わたしは〕説く。あるいは、また、彼らが、沙門たちであろうと、婆羅門たちであろうと、誰であれ、非生存(非有:虚無)によって〔虚無的に〕生存の出離を言ったなら、『彼らは、〔その〕一切が〔断滅論者であり〕、〔迷いの〕生存から出離していない』と〔わたしは〕説く。

 まさに、この苦しみは、〔心の〕依り所(依存の対象)を縁として発生する。一切の執取の滅尽あることから、苦しみの発生は存在しない。この世〔の人々〕を見よ。広く無明に打ち負かされた生類たちであり、生類であることに喜びある者たちであり、〔迷いの生存から〕完全に解き放たれない者たちである。まさに、諸々の生存は、それらが何であれ、一切所において、一切所たることをもって、『それらの生存は、〔その〕一切が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と〔わたしは説く〕。

 このように、このことを事実のとおりに、正しい知慧(般若・慧)によって〔常に〕見ていると、生存にたいする渇愛〔の思い〕は捨棄され、非生存(虚無的生き方)を喜ぶことはない。全てにわたり渇愛の滅尽あることから、残りなき離貪による止滅があり、涅槃がある。

 〔何ものをもを〕執取せずして、涅槃に到達した、その比丘にとって、さらなる〔迷いの〕生存は有りえない。悪魔は征服され、戦場は征圧された。そのような者は、一切の生存を超え行った」と。

 〔以上が〕第十〔の経〕となる。

 ナンダの章が、第三となる。

 その〔章〕のための、摂頌となる。

 〔しかして、詩偈に言う〕「行為、ナンダ、および、ヤソージャ、および、サーリプッタ、コーリタ、ピリンダ、カッサパ、〔行乞の〕食、技能、世とともに、それらの十がある」と。