小部経典

3:ウダーナ

4 メーギヤの章

4.1. メーギヤの経(31)

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、チャーリカーに住しておられます。〔村はずれの〕チャーリカ山において。さて、まさに、その時、尊者メーギヤが、世尊の奉仕者(世話係)です。そこで、まさに、尊者メーギヤは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に立ちました。一方に立った、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、ジャントゥ村に〔行乞の〕食のために入ることを求めます」と。「メーギヤよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔そうしなさい〕」と。

 そこで、まさに、尊者メーギヤは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ジャントゥ村に〔行乞の〕食のために入りました。ジャントゥ村を〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、キミカーラー川の岸辺のところに、そこへと近づいて行きました。まさに、尊者メーギヤは、キミカーラー川の岸辺を、ゆったりとした歩調で、こちらを歩いてはあちらを歩みつつ、清らかで美しく喜ばしいアンバ林(マンゴーの果樹園)を見ました。見て、彼は、こう思いました。「まさに、これは、清らかで美しく喜ばしいアンバ林だ。まさに、この〔アンバ林〕は、〔刻苦〕精励を義(目的)とする良家の子息にとって、精励のために十分〔の場所〕だ。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、このアンバ林に、精励のために帰ってこよう」と。

 そこで、まさに、尊者メーギヤは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。

 「尊き方よ、ここに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ジャントゥ村に〔行乞の〕食のために入りました。ジャントゥ村を〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、キミカーラー川の岸辺のところに、そこへと近づいて行きました。尊き方よ、まさに、わたしは、キミカーラー川の岸辺を、ゆったりとした歩調で、こちらを歩いてはあちらを歩みつつ、清らかで美しく喜ばしいアンバ林を見ました。見て、わたしは、こう思いました。『まさに、これは、清らかで美しく喜ばしいアンバ林だ。まさに、この〔アンバ林〕は、〔刻苦〕精励を義(目的)とする良家の子息にとって、精励のために十分〔の場所〕だ。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、このアンバ林に、精励のために帰ってこよう』と。尊き方よ、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、そのアンバ林に、精励のために行くでしょう」と。

 このように言われたとき、世尊は、尊者メーギヤに、こう言いました。「メーギヤよ、まずは、待ちなさい。〔わたしは、いま〕独りきりです。誰かしら、他にまた、比丘がやってくるまで、それまでは」と。

 再度また、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、〔為すべきことを為した〕世尊には、何であれ、より上なる為すべきことは存在しません。あるいは、為したことの〔より上なる〕蓄積は存在しません。尊き方よ、ですが、まさに、〔為すべきことを為していない〕わたしには、より上なる為すべきことが存在します。為したことの〔より上なる〕蓄積が存在します。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、そのアンバ林に、精励のために行くでしょう」と。再度また、まさに、世尊は、尊者メーギヤに、こう言いました。「メーギヤよ、まずは、待ちなさい。〔わたしは、いま〕独りきりです。誰かしら、他にまた、比丘がやってくるまで、それまでは」と。

 三度また、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊には、何であれ、より上なる為すべきことは存在しません。あるいは、〔為すべきことを〕為した〔世尊〕には、〔為したことのより上なる〕蓄積は存在しません。尊き方よ、ですが、まさに、わたしには、より上なる為すべきことが存在します。〔為すべきことを〕為した〔わたし〕には、〔為したことのより上なる〕蓄積が存在します。それで、もし、わたしのことを、世尊がお許しになるなら、わたしは、そのアンバ林に、精励のために行くでしょう」と。「メーギヤよ、まさに、『精励する』と説いている者に、『どうして』と説けましょう。メーギヤよ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔そうしなさい〕」と。

 そこで、まさに、尊者メーギヤは、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、そのアンバ林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、そのアンバ林に深く入って行って、或るどこかの木の根元で、昼の休息のために坐しました。そこで、まさに、尊者メーギヤが、そのアンバ林において住していると、多くのところは、三つの悪しき善ならざる思考(尋)が行き交います。それ、すなわち、この――欲望の思考、加害の思考、悩害の思考が。

 そこで、まさに、尊者メーギヤは、こう思いました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。さてまた、まさに、〔わたしたちは〕信によって家から家なきへと出家したのだ。そこで、なおかつ、また、これらの三つの悪しき善ならざる思考に取り付かれたのだ。それ、すなわち、この――欲望の思考、加害の思考、悩害の思考に」〔と〕。

 そこで、まさに、尊者メーギヤは、夕刻時に、坐禅から出起し、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者メーギヤは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしが、そのアンバ林において住していると、多くのところは、三つの悪しき善ならざる思考が行き交います。それ、すなわち、この――欲望の思考、加害の思考、悩害の思考が。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしは、こう思いました。『ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。さてまた、まさに、〔わたしたちは〕信によって家から家なきへと出家したのだ。そこで、なおかつ、また、これらの三つの悪しき善ならざる思考に取り付かれたのだ。それ、すなわち、この――欲望の思考、加害の思考、悩害の思考に』」〔と〕。

 「メーギヤよ、円熟なき心による解脱のばあい、五つの法(性質)が、円熟のために等しく転起します。どのようなものが、五つ〔の法〕なのでしょう。

 (1)メーギヤよ、ここに、比丘が、善き朋友と成り、善き道友と〔成り〕、善き友人と〔成るなら〕、メーギヤよ、円熟なき心による解脱のばあい、この第一の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。

 (2)メーギヤよ、さらに、また、他に、比丘が、戒ある者と成り、戒め(波羅提木叉:戒律条項)の統御によって〔自己が〕統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕行状と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶなら、メーギヤよ、円熟なき心による解脱のばあい、この第二の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。

 (3)メーギヤよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、この、謹厳なる議論――心の開顕に適当なるもののために〔等しく転起し〕、絶対的な厭離“えんり”のために〔等しく転起し〕、離貪のために〔等しく転起し〕、止滅のために〔等しく転起し〕、寂止のために〔等しく転起し〕、証知のために〔等しく転起し〕、正覚のために〔等しく転起し〕、涅槃のために等しく転起する〔謹厳なる議論〕――それは、たとえば、この、求めることが少ないこと(少欲)についての議論、満ち足りていること(知足)についての議論、〔世俗の事物から〕遠く離れていること(遠離)についての議論、〔他者と不必要に〕交わらないことについての議論、精進に励むことについての議論、戒についての議論、〔心の〕統一についての議論、知慧についての議論、解脱についての議論、解脱の知見についての議論ですが――このような形の議論において、満足を得る者と成り、難渋なきを得る者と〔成り〕、困難なきを得る者と〔成るなら〕、メーギヤよ、円熟なき心による解脱のばあい、この第三の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。

 (4)メーギヤよ、さらに、また、他に、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住み、諸々の善ならざる法(性質)を捨棄するために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、強靱なる者として〔世に住み〕、堅固なる努力ある者として〔世に住み〕、諸々の善なる法(性質)において責任を放棄しない者として〔世に住むなら〕、メーギヤよ、円熟なき心による解脱のばあい、この第四の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。

 (5)メーギヤよ、さらに、また、他に、比丘が、知慧ある者と成り、生成と滅至についての知慧を具備した者と〔成り〕、正しく苦しみの滅尽へと至る聖なる洞察を〔具備した者と成るなら〕、メーギヤよ、円熟なき心による解脱のばあい、この第五の法(性質)が、円熟のために等しく転起します。

 メーギヤよ、比丘が、善き朋友としてあり、善き道友としてあり、善き友人としてあるなら、このことが期待できます。すなわち――〔その比丘は〕戒ある者と成り、戒め(戒律条項)の統御によって〔自己が〕統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕行状と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学ぶでしょう。

 メーギヤよ、比丘が、善き朋友としてあり、善き道友としてあり、善き友人としてあるなら、このことが期待できます。すなわち――〔その比丘は〕すなわち、この、謹厳なる議論――心の開顕に適当なるもののために〔等しく転起し〕、絶対的な厭離のために〔等しく転起し〕、離貪のために〔等しく転起し〕、止滅のために〔等しく転起し〕、寂止のために〔等しく転起し〕、証知のために〔等しく転起し〕、正覚のために〔等しく転起し〕、涅槃のために等しく転起する〔謹厳なる議論〕――それは、たとえば、この、求めることが少ないことについての議論、満ち足りていることについての議論、〔世俗の事物から〕遠く離れていることについての議論、〔他者と不必要に〕交わらないことについての議論、精進に励むことについての議論、戒についての議論、〔心の〕統一についての議論、知慧についての議論、解脱についての議論、解脱の知見についての議論ですが――このような形の議論において、満足を得る者と成り、難渋なきを得る者と〔成り〕、困難なきを得る者と〔成るでしょう〕。

 メーギヤよ、比丘が、善き朋友としてあり、善き道友としてあり、善き友人としてあるなら、このことが期待できます。すなわち――〔その比丘は〕精進に励む者として〔世に〕住み、諸々の善ならざる法(性質)を捨棄するために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、強靱なる者として〔世に住み〕、堅固なる努力ある者として〔世に住み〕、諸々の善なる法(性質)において責任を放棄しない者として〔世に住むでしょう〕。

 メーギヤよ、比丘が、善き朋友としてあり、善き道友としてあり、善き友人としてあるなら、このことが期待できます。すなわち――〔その比丘は〕知慧ある者と成り、生成と滅至についての知慧を具備した者と〔成り〕、正しく苦しみの滅尽へと至る聖なる洞察を〔具備した者と成るでしょう〕。

 メーギヤよ、なおかつ、また、その比丘によって、これらの五つの法(性質)において〔自己を〕確立して〔そののち〕、四つの法(性質)が、より上なるものとして修められるべきです。〔すなわち〕貪欲〔の思い〕を捨棄するために、(1)不浄〔の想い〕(不浄想)が修められるべきです。加害〔の思い〕を捨棄するために、(2)慈愛〔の心〕(慈悲の瞑想)が修められるべきです。思考を断ち切るために、(3)呼吸についての気づき(呼吸の瞑想)が修められるべきです。『わたしは存在する』という思量を根絶するために、(4)無常の想い(無常想)が修められるべきです。メーギヤよ、まさに、無常の想いある者には、無我の想い(無我想)が確立します。無我の想いある者は、『わたしは存在する』という思量の根絶を得ます。まさしく、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において、涅槃を〔得ます〕」と。

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 「諸々の思考〔の働き〕は、微小である。諸々の思考〔の働き〕は、微細である。〔限定された〕意“おもい”に従い行き、跳ね回っている。〔限定された〕意の、これらの思考〔の働き〕を知ることなく、心が迷走している者は、あの〔世〕からあの〔世〕へと走り行く。

 しかしながら、〔限定された〕意の、これらの思考〔の働き〕を知る、熱情ある、気づきの者は、〔自己の心身を〕統御する。〔限定された〕意に従い行き、跳ね回っている、これら〔の思考の働き〕を、覚者は、残りなく捨棄した」と。

 〔以上が〕第一〔の経〕となる。