小部経典

3:ウダーナ

5.5. 斎戒の経(45)

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティに住しておられます。東の園地にあるミガーラ・マートゥの高楼(鹿母講堂:ミガーラの母のヴィサーカーが寄進した堂舎)において。さて、まさに、その時、世尊は、斎戒(布薩:地域内の比丘が集まり波羅提木叉を読誦して自省する僧団行事)のその日、比丘の僧団に取り囲まれ、坐しておられたのです。

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、初更(宵の内)を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、初更を過ぎました。比丘の僧団は、長らく坐しています。尊き方よ、世尊よ、比丘たちに、戒め(波羅提木叉:戒律条項)を誦説してください」と。このように言われたとき、世尊は、沈黙したままでした。

 再度また、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、中更(真夜中)を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、中更を過ぎました。比丘の僧団は、長らく坐しています。尊き方よ、世尊よ、比丘たちに、戒めを誦説してください」と。このように言われたとき、世尊は、沈黙したままでした。

 三度また、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、後更(明け方)を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、後更を過ぎました。比丘の僧団は、長らく坐しています。尊き方よ、世尊よ、比丘たちに、戒めを誦説してください」と。「アーナンダよ、〔この〕衆は、完全なる清浄にあらず」と。

 そこで、まさに、尊者マハーモッガッラーナは、こう思いました。「いったい、まさに、世尊は、どの人物に関して、こう言ったのだろう。〔すなわち〕『アーナンダよ、〔この〕衆は、完全なる清浄にあらず』」と。そこで、まさに、尊者マハーモッガッラーナは、〔その〕比丘の僧団の一切すべてに、心をとおして、心を探知して、意“おもい”を為しました。まさに、尊者マハーモッガッラーナは、その人物を――劣戒にして悪しき法(性質)の者、不浄にして行状“おこない”に疑いある者、生業を隠蔽し、沙門でないのに沙門と公言し(沙門を名乗り)、梵行者でないのに梵行者と公言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている者、生まれながらの屑でありながら、比丘の僧団の中に坐している〔その人物〕を――見ました。見て、坐から立ち上がって、その人物のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その人物に、こう言いました。「友よ、立ち上がりなさい。〔あなたは〕見られたのです――世尊によって。あなたに、比丘たちと共にする共住〔の資格〕は存在しません」と。このように言われたとき、その人物は、沈黙したままでした。

 再度また、まさに、尊者マハーモッガッラーナは、その人物に、こう言いました。「友よ、立ち上がりなさい。〔あなたは〕見られたのです――世尊によって。あなたに、比丘たちと共にする共住〔の資格〕は存在しません」と。再度また、まさに……略……。三度また、まさに、その人物は、沈黙したままでした。

 そこで、まさに、尊者マハーモッガッラーナは、その人物の腕を掴んで、門小屋の外に追い出して、閂“かんぬき”を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、その人物は、わたしが追い出しました。〔この〕衆は、完全なる清浄です。尊き方よ、世尊よ、比丘たちに、戒めを誦説してください」と。「モッガッラーナよ、めったにないことです。モッガッラーナよ、はじめてのことです。まさに、腕を掴むに至るまさえでも、その愚かな人物が待っているとは」と。

 そこで、まさに、世尊は、比丘たちに、語りかけました。「比丘たちよ、今やもう、わたしは、これから後は、斎戒を為すことも、戒めを誦説することも、ないでしょう。比丘たちよ、今やもう、あなたたちだけで、これから後は、斎戒を為し、戒めを誦説するのです。比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、場違いなことなのです。すなわち、如来が、完全なる清浄ならざる衆のために、斎戒を為し、戒めを誦説するのは。

 比丘たちよ、八つのものがあります。これらの、大海について、めったにないはじめての法(性質)があります。それら〔の法〕を見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。どのようなものが、八つのものなのですか。

 (1)比丘たちよ、大海は、順次に低くなり、順次に傾き、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にはなりません。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、順次に低くなり、順次に傾き、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にはならないのは、比丘たちよ、これが、大海について、第一の、めったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 (2)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、法(性質)が安立し、海岸を過ぎ行くことがありません。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、法(性質)が安立し、海岸を過ぎ行くことがないのは、比丘たちよ、これが、大海について、第二の、めったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 (3)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、死骸と共住せず、それが、大海のうちに、死骸として有るなら、その〔死骸〕を、ごくすみやかに、岸へと運び去り、陸へと打ち上げます。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、死骸と共住せず、それが、大海のうちに、死骸として有るなら、その〔死骸〕を、ごくすみやかに、岸へと運び去り、陸へと打ち上げるのは、比丘たちよ、これが、大海について、第三の、めったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 (4)比丘たちよ、さらに、また、他に、それらが何であれ、諸々の大河であるなら、それは、たとえば、この、ガンガー〔川〕、ヤムナー〔川〕、アチラヴァティー〔川〕、サラブー〔川〕、マヒー〔川〕のように、それらは、大海に至って〔そののちは〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、「大海」という名称へと行き着きます(大海という名でのみ呼称される)。比丘たちよ、すなわち、また、それらが何であれ、諸々の大河であるなら、それは、たとえば、この、ガンガー〔川〕、ヤムナー〔川〕、アチラヴァティー〔川〕、サラブー〔川〕、マヒー〔川〕のように、それらが、大海に至って〔そののちは〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、「大海」という名称へと行き着くのは、比丘たちよ、これが、大海について、第四の、めったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 (5)比丘たちよ、さらに、また、他に、しかして、それらの世における諸々の水流が、大海に注ぎ入るとして、さらには、それらの空中からの諸々の流雨が、〔大海に〕落ちるとして、それによって、大海の、あるいは、減少が〔知られることもなければ〕、あるいは、増加が知られることもありません。比丘たちよ、すなわち、また、しかして、それらの世における諸々の水流が、大海に注ぎ入るとして、さらには、それらの空中からの諸々の流雨が、〔大海に〕落ちるとして、それによって、大海の、あるいは、減少が〔知られることもなければ〕、あるいは、増加が知られることもないのは、比丘たちよ、これが、大海について、第五の、めったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 (6)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、同一の味であり、塩の味です。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、同一の味であり、塩の味であるのは、比丘たちよ、これが、大海について、第六の、めったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 (7)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、多くの宝物があり、無数の宝物があり、そこに、これらの宝物があります――それは、たとえば、この、真珠、宝珠、瑠璃、法螺、宝石、珊瑚、白銀、黄金、赤玉、瑪瑙のように。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、多くの宝物があり、無数の宝物があり、そこに、これらの宝物があるのは――それは、たとえば、この、真珠、宝珠、瑠璃、法螺、宝石、珊瑚、白銀、黄金、赤玉、瑪瑙のように、比丘たちよ、これが、大海について、第七の、めったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 (8)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、大いなる生類たちが居住し、そこに、これらの生物たち――ティミ〔の大魚〕、ティミンガラ〔の大魚〕、ティミティミンガラ〔の大魚〕、阿修羅たち、龍たち、ガンダッバ(音楽神)たちがいて、百ヨージャナ(長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の旅程距離)さえもの自己状態あるものたちとして、二百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、三百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、四百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在します。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、大いなる生類たちが居住し、そこに、これらの生物たち――ティミ〔の大魚〕、ティミンガラ〔の大魚〕、ティミティミンガラ〔の大魚〕、阿修羅たち、龍たち、ガンダッバたちがいて、百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、二百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして……略……五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在するのは、比丘たちよ、まさに、これが、大海について、第八の、めったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。比丘たちよ、まさに、これらが、大海について、八つの、めったにないはじめての法(性質)です。それらを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

 比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律について、八つの、めったにないはじめての法(性質)があります。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。八つとは何でしょう。

 (1)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、順次に低くなり、順次に傾き、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にならないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律には、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、いきなり急に了知の理解はありません。比丘たちよ、すなわち、また、この法(教え)と律には、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、いきなり急に了知の理解がないのは、比丘たちよ、これが、この法(教え)と律について、第一の、めったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 (2)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、法(性質)が安立し、海岸を過ぎ行くことがないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが、わたしによって弟子たちのために制定された学処(戒律)であるなら、その〔学処〕を、わたしの弟子たちは、たとえ、生命を因としても、犯すことがありません。比丘たちよ、すなわち、また、それが、わたしによって弟子たちのために制定された学処であるなら、その〔学処〕を、わたしの弟子たちが、たとえ、生命を因としても、犯すことがないのは、比丘たちよ、これが、この法(教え)と律について、第二の、めったにないはじめての法(性質)です。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 (3)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、死骸と共住せず、それが、大海のうちに、死骸として有るなら、その〔死骸〕を、ごくすみやかに、岸へと運び去り、陸へと打ち上げるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、彼が、その人物が、劣戒にして悪しき法(性質)の者であり、不浄にして行状に疑いある者であり、生業を隠蔽し、沙門でないのに沙門と公言し(沙門を名乗り)、梵行者でないのに梵行者と公言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている者であり、生まれながらの屑の者であるなら、僧団は、彼と共住せず、そこで、まさに、ごくすみやかに集まって、彼を排斥し、たとえ、何であれ、彼が、比丘の僧団の中に坐しているとして、そこで、まさに、彼は、僧団から、まさしく、遠く離れることになり、僧団も、彼と〔共住することはありません〕。比丘たちよ、すなわち、また、彼が、その人物が、劣戒にして悪しき法(性質)の者であり、不浄にして行状に疑いある者であり、生業を隠蔽し、沙門でないのに沙門と公言し、梵行者でないのに梵行者と公言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている者であり、生まれながらの屑の者であるなら、僧団が、彼と共住せず、そこで、まさに、ごくすみやかに集まって、彼を排斥し、たとえ、何であれ、彼が、比丘の僧団の中に坐しているとして、そこで、まさに、彼は、僧団から、まさしく、遠く離れることになり、僧団も、彼と〔共住することがない〕のは、比丘たちよ、これが、この法(教え)と律について、第三の、めったにないはじめての法(性質)です。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 (4)比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の大河であるなら、それは、たとえば、この、ガンガー〔川〕、ヤムナー〔川〕、アチラヴァティー〔川〕、サラブー〔川〕、マヒー〔川〕のように、それらは、大海に至って〔そののちは〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、「大海」という名称へと行き着くように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つの階級の者たちである、士族たち、婆羅門たち、庶民たち、隷民たちですが、彼らは、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家して〔そののちは〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、「釈迦〔族〕の子の沙門」という名称へと行き着きます。比丘たちよ、すなわち、また、四つの階級の者たちである、士族たち、婆羅門たち、庶民たち、隷民たちですが、彼らが、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家して〔そののちは〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、「釈迦〔族〕の子の沙門」という名称へと行き着くのは、比丘たちよ、これが、この法(教え)と律について、第四の、めったにないはじめての法(性質)です。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 (5)比丘たちよ、それは、たとえば、また、しかして、それらの世における諸々の水流が、大海に注ぎ入るとして、さらには、それらの空中からの諸々の流雨が、〔大海に〕落ちるとして、それによって、大海の、あるいは、減少が〔知られることもなければ〕、あるいは、増加が知られることもないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、たとえ、もし、多くの比丘たちが、〔生存の〕依り所(身体)という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において、完全なる涅槃に到達するとして、それによって、涅槃の界域の、あるいは、減少が〔知られることもなければ〕、あるいは、増加が知られることもありません。比丘たちよ、すなわち、また、たとえ、もし、多くの比丘たちが、〔生存の〕依り所がない涅槃の界域において、完全なる涅槃に到達するとして、それによって、涅槃の界域の、あるいは、減少が〔知られることもなければ〕、あるいは、増加が知られることもないのは、比丘たちよ、これが、この法(教え)と律について、第五の、めったにないはじめての法(性質)です。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 (6)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、同一の味であり、塩の味であるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律は、同一の味であり、解脱の味です。比丘たちよ、すなわち、また、この法(教え)と律が、同一の味であり、解脱の味であるのは、比丘たちよ、これが、この法(教え)と律について、第六の、めったにないはじめての法(性質)です。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 (7)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、多くの宝物があり、無数の宝物があり、そこに、これらの宝物があるように――それは、たとえば、この、真珠、宝珠、瑠璃、法螺、宝石、珊瑚、白銀、黄金、赤玉、瑪瑙のように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律は、多くの宝物があり、無数の宝物があり、そこに、これらの宝物があります――それは、たとえば、この、四つの気づきの確立(四念処:身体と感受と心と法についての気づき)、四つの正しい精励(四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)、四つの神通の足場(四神足:意欲・心・精進・考察)、五つの機能(五根:信・精進・気づき・定・知慧)、五つの力(五力:信・精進・気づき・定・知慧)、七つの覚りの支分(七覚支:気づき・法の判別・精進・喜・軽安・定・捨)、聖なる八つの支分ある道(八正道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)のように。比丘たちよ、すなわち、また、この法(教え)と律が、多くの宝物があり、無数の宝物があり、そこに、これらの宝物があるのは――それは、たとえば、この、四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分、聖なる八つの支分ある道のように、比丘たちよ、これが、この法(教え)と律について、第七の、めったにないはじめての法(性質)です。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 (8)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、大いなる生類たちが居住し、そこに、これらの生物たち――ティミ〔の大魚〕、ティミンガラ〔の大魚〕、ティミティミンガラ〔の大魚〕、阿修羅たち、龍たち、ガンダッバたちがいて、百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、二百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、三百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、四百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律は、大いなる生類たちが居住し、そこに、これらの生類たち――預流たる者(預流果)、預流果の実証のために〔道を〕実践する者(預流道)、一来たる者(一来果)、一来果の実証のために〔道を〕実践する者(一来道)、不還たる者(不還果)、不還果の実証のために〔道を〕実践する者(不還道)、阿羅漢(阿羅漢果)、阿羅漢の資質のために〔道を〕実践する者(阿羅漢道)がいます。比丘たちよ、すなわち、また、この法(教え)と律が、大いなる生類たちが居住し、そこに、これらの生類たち――預流たる者、預流果の実証のために〔道を〕実践する者、一来たる者、一来果の実証のために〔道を〕実践する者、不還たる者、不還果の実証のために〔道を〕実践する者、阿羅漢、阿羅漢の資質のために〔道を〕実践する者がいるのは、比丘たちよ、これが、この法(教え)と律について、第八の、めったにないはじめての法(性質)です。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。比丘たちよ、まさに、これらが、この法(教え)と律について、八つの、めったにないはじめての法(性質)です。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 「覆われたものに、雨が漏れ入る。開かれたものに、雨が漏れ入ることはない。それゆえに、覆われたものを開くように。このように、その〔開かれたもの〕に、雨が漏れ入ることはない」と。

 〔以上が〕第五〔の経〕となる。