小部経典

3:ウダーナ

6.8. 遊女の経(58)

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハ(王舎城)に住しておられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)において。さて、まさに、その時、ラージャガハには、或るひとりの遊女に執着し、心が縛られた、二つの組の者たちがいます。口論を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を、諸々の拳によってもまた攻撃し、諸々の土塊によってもまた攻撃し、諸々の棒によってもまた攻撃し、諸々の刃によってもまた攻撃します。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。

 そこで、まさに、大勢の比丘たちは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。ラージャガハを〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、ラージャガハには、ある遊女に執着し、心が縛られた、二つの組の者たちがいます。口論を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに他を、諸々の拳によってもまた攻撃し、諸々の土塊によってもまた攻撃し、諸々の棒によってもまた攻撃し、諸々の刃によってもまた攻撃します。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕」と。

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 「しかして、それが、得たものであるとして、さらには、それが、得られるべきものであるとして、この両者は、塵にまみれている――病んだ者が学んでいるなら。しかして、彼らが、〔形だけの〕学びを真髄とする者たちであり、〔特定の〕戒や掟と〔特定の〕生き方と〔形だけの〕梵行(禁欲清浄行)と〔見せかけの〕奉仕を真髄とする者たち(禁欲主義者)であるなら、これは、一つの極である。さらには、彼らが、「諸々の欲望のうちに、汚点(罪悪)は存在しない」と、このように説く者たち(快楽主義者)であるなら、これは、第二の極である。かくのごとく、これらの両極は、諸々の墓地を増大するものであり、諸々の墓地は、〔悪しき〕見解を増大させる。〔迷える〕彼らは、これらの両極を証知せずして、或る者たちは、〔一方の極に〕執着し、或る者たちは、〔頑なに拒否して〕走り去る。しかしながら、彼らが、まさに、それら〔の両極〕を証知して、しかして、そこにおいて〔論を〕言わなかったなら、さらには、それによって思い考えなかったなら、彼らに、〔迷いの生存を〕設置するための〔輪廻の〕転起は存在しない」と。

 〔以上が〕第八〔の経〕となる。