小部経典

3:ウダーナ

8 パータリ村の者の章

8.1. 第一の涅槃に関することの経(71)

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住しておられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の園地(祇園精舎)において。さて、まさに、その時、世尊は、比丘たちに、涅槃に関する法(真理)の講話によって、〔真理を〕見示し、受持させ、〔あるいは〕激励し、歓喜させます。ここに、それらの比丘たちは、〔それを〕義(目的)と為して、〔それに〕意を為して、〔その〕全てに心を集中して、耳を傾け、〔その〕法(教え)を聞きます。

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 「比丘たちよ、その場所(処)は存在する――そこにおいては、まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処:虚空のように終わりはない、という瞑想の境地)なく、識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処:心意識に終わりはない、という瞑想の境地)なく、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処:いかなるものも断片的対象物として存在しない、という瞑想の境地)なく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処:表象があるでもなく表象がないでもない、という瞑想の境地)なく、この世なく、他世なく、月と日の両者はない。比丘たちよ、そこにおいて、また、わたしは、まさしく、帰る所(現世)を説かず、赴く所(来世)を〔説か〕ず、止住を〔説か〕ず、死滅を〔説か〕ず、再生を〔説か〕ず、これ(涅槃)を、依って立つところなきものと〔説き〕、〔対象として〕転起されることなきものと〔説き〕、まさしく、〔転起された〕対象ならざるものと〔説く〕。これこそは、苦しみの終極“おわり”である」と。

 〔以上が〕第一〔の経〕となる。