小部経典

3:ウダーナ

8.5. チュンダの経(75)

 このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、マッラ〔国〕で、大勢の比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、パーヴァー〔市〕のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、パーヴァーに住しておられます。鍛冶屋の子のチュンダのアンバ林(マンゴーの果樹園)において。

 まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、「世尊が、どうやら、マッラ〔国〕で、大勢の比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、パーヴァー〔市〕のあるところに、そこへと到着し、パーヴァーに住しておられるらしい。〔それも〕わたしのアンバ林において」と耳にしました。そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、鍛冶屋の子のチュンダに、世尊は、法(真理)の講話によって、〔真理を〕見示し、受持させ、〔あるいは〕激励し、歓喜させました。そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊によって、法(真理)の講話によって、〔真理を〕見示され、受持させられ、〔あるいは〕激励され、歓喜させられ、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊よ、明日、わたしの食事を、比丘の僧団と共に、お受けください」と。世尊は、沈黙の状態をもって、お受けになりました。

 そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊がお受けすることを知って、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、その夜が明けると、自らの住居において、上質の固形の食料や軟らかい食料を準備して、さらには、沢山のスーカラマッダヴァ(やわらかい豚肉)を〔準備して〕、世尊に、時を告げました。「尊き方よ、時間です。食事ができました」と。

 そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、比丘の僧団と共に、鍛冶屋の子のチュンダの住居のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐られました。坐られて、まさに、世尊は、鍛冶屋の子のチュンダに語りかけました。「チュンダさん、〔まさに〕その、あなたが準備したスーカラマッダヴァですが、それは、わたしに給仕してください。いっぽう、〔まさに〕その、〔あなたが〕準備した、他の固形の食料や軟らかい食料ですが、それは、比丘の僧団に給仕してください」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊に答えて、〔まさに〕その、準備してあったスーカラマッダヴァですが、それは、世尊に給仕し、いっぽう、〔まさに〕その、〔彼が〕準備した、他の固形の食料や軟らかい食料ですが、それは、比丘の僧団に給仕しました。

 そこで、まさに、世尊は、鍛冶屋の子のチュンダに、語りかけました。「チュンダさん、〔まさに〕その、あなたに残されたスーカラマッダヴァですが、それは、穴に埋めてください。チュンダさん、天〔界〕を含む世〔界〕において、魔〔界〕を含み梵〔界〕を含む〔世界〕において、沙門や婆羅門を含む人々において、天〔の神〕や人間を含む〔人々〕において、彼が、それを食べたとして、正しく変化へと至るであろう(消化吸収することができる)、〔まさに〕その者を、如来の他に、わたしは見ません」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊に答えて、〔まさに〕その、残されたものとしてあったスーカラマッダヴァですが、それは、穴に埋めて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、鍛冶屋の子のチュンダに、世尊は、法(真理)の講話によって、〔真理を〕見示して、受持させて、〔あるいは〕激励して、歓喜させて〔そののち〕、坐から立ち上がって、立ち去りました。

 そこで、まさに、世尊が、鍛冶屋の子のチュンダの食事を食べたところ、荒々しい病苦が生起しました。血の下痢とともに、激烈で、死に至るほどの、諸々の〔苦痛の〕感受が転起します。そこで、まさに、世尊は、気づきと正知の者として、打ちのめされることなく、耐え忍びました。

 そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに語りかけました。「アーナンダよ、行こう。クシナーラー〔村〕のあるところに、そこへと近づいて行こう」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、〔詩偈をもって〕答えました。

 「わたしは聞いた。『鍛冶屋〔の子〕のチュンダの食事を食べて、慧者は、激烈で、死に至るほどの病苦に襲われた』と。

 しかして、〔食事を〕食べた教師には、スーカラマッダヴァによる、激烈なる病が生起した。下痢をしつつ、世尊は言った。『わたしは、クシナーラーの城市に行きます』」と。

 そこで、まさに、世尊は、道を外れて、或るどこかの木の根元のところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダに、語りかけました。「さあ、アーナンダよ、わたしのために、あなたは、四重に大衣を設けておくれ。アーナンダよ、〔わたしは〕疲れました。〔わたしは〕坐りたい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、四重に大衣を設けました。世尊は、設けられた坐に坐られました。坐られて、まさに、世尊は、尊者アーナンダに、語りかけました。「さあ、アーナンダよ、わたしのために、あなたは、水を持ってきておくれ。アーナンダよ、〔わたしは、喉が〕渇きました。〔わたしは、水が〕飲みたい」と。

 このように言われたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、今や、五百ほどの荷車が通り過ぎたところです。〔まさに〕その、〔この川の〕水ですが、〔荷車の〕車輪によって断ち切られ、僅かとなり、掻き乱され、濁ったまま流れています。尊き方よ、あのククダー川が、〔ここから〕遠く離れていないところにあります。水は澄み、水は冷たく、水は白く、〔岸辺が〕しっかりと確立し、〔快適で〕喜ばしいところです。世尊よ、あそこで、水を飲むこともできますし、四肢を冷やすこともできます」と。

 再度また、まさに……略……。三度また、まさに、世尊は、尊者アーナンダに、語りかけました。「さあ、アーナンダよ、わたしのために、あなたは、水を持ってきておくれ。アーナンダよ、〔わたしは、喉が〕渇きました。〔わたしは、水が〕飲みたい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者アーナンダは、世尊に答えて、鉢を抱えて、その川のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、その川〔の水〕は、〔荷車の〕車輪によって断ち切られ、僅かとなり、掻き乱され、濁ったまま流れていますが、尊者アーナンダが近づいて行くと、〔水は〕澄み、清らかとなり、濁りなく流れます。

 そこで、まさに、尊者アーナンダは、こう思いました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。如来の、偉大なる神通だ、偉大なる威力だ。なぜなら、〔まさに〕この、その川〔の水〕は、〔荷車の〕車輪によって断ち切られ、僅かとなり、掻き乱され、濁ったまま流れているが、わたしが近づいて行くと、〔水は〕澄み、清らかとなり、濁りなく流れるからだ」と。〔尊者アーナンダは〕鉢で水を汲んで、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。如来の、偉大なる神通です、偉大なる威力です。なぜなら、〔まさに〕この、その川〔の水〕は、〔荷車の〕車輪によって断ち切られ、僅かとなり、掻き乱され、濁ったまま流れていますが、わたしが近づいて行くと、〔水は〕澄み、清らかとなり、濁りなく流れるからです。世尊よ、水をお飲みください。善き至達者(善逝)よ、水をお飲みください」と。

 そこで、まさに、世尊は、水を飲まれました。そこで、まさに、世尊は、大勢の比丘の僧団と共に、ククダー川のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ククダー川に深く入って行って、さらには、沐浴して、なおまた、〔水を〕飲んで、〔川から〕上がって、アンバ林のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者チュンダカに、語りかけました。「さあ、チュンダカよ、わたしのために、あなたは、四重に大衣を設けておくれ。チュンダカよ、〔わたしは〕疲れました。〔わたしは〕横になりたい」と。

 「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者チュンダカは、世尊に答えて、四重に大衣を設けました。そこで、まさに、世尊は、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営みました(右脇を下にして獅子のように臥した)。気づきと正知の者として、〔次に〕起き上がることへの想いに意を為して。いっぽう、尊者チュンダカは、まさしく、そこに、〔すなわち〕世尊の前に坐りました。

 「水は澄み、水は冷たく、清らかなククダー川に、覚者は至って、この世に比類なき如来たる教師は、極めて疲れた様子で、〔川に〕入った。

 さらには、沐浴して、なおまた、〔水を〕飲んで、教師は、〔川から〕上がった。比丘の集まりの中において尊ばれる方、教師は――この〔世において〕諸々の法(真理)を転起させる方、世尊は――偉大なる聖賢は、アンバ林へと近づき行った。チュンダカという名の比丘に、〔世尊は〕語りかけた。『わたしのために、四重に〔大衣を〕敷いておくれ。〔わたしは〕横になりたい』〔と〕。

 彼は、自己を修めた方(ブッダ)に促されたチュンダ(チュンダカ)は、ごくすみやかに、四重に〔大衣を〕敷いた。教師は、極めて疲れた様子で、横になった。チュンダもまた、そこに、〔世尊の〕面前に坐った」と。

 そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダに、語りかけました。「アーナンダよ、さてまた、まさに、鍛冶屋の子のチュンダに、誰かしらが、後悔〔の思い〕を与えるでしょう。〔すなわち〕『友よ、チュンダよ、如来が、〔まさに〕その、あなたの、最後の〔行乞の〕施食を食べて〔そののち〕、完全なる涅槃に到達した者となるなら、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得ならざるものがあり、〔まさに〕その、あなたにとって、〔功徳は〕得難きものとなる』と。アーナンダよ、鍛冶屋の子のチュンダの後悔〔の思い〕は、このように取り除かれるべきです。

 〔すなわち〕『友よ、チュンダよ、如来が、〔まさに〕その、あなたの、最後の〔行乞の〕施食を食べて〔そののち〕、完全なる涅槃に到達した者となるなら、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得があり、〔まさに〕その、あなたにとって、〔功徳は〕得易きものとなります。友よ、チュンダよ、わたしは、これを、世尊の面前で聞き、〔世尊の〕面前で受けました。これらの二つの〔行乞の〕施食は、全く等しい果となり、全く等しい報いとなり、他の諸々の〔行乞の〕施食よりも、極端に、より大いなる果ともなれば、より大いなる福利ともなります。どのようなものが、二つ〔の行乞の施食〕なのでしょう。如来が、それを食べて〔そののち〕、無上の正自覚(無上正等覚)を正覚する、〔行乞の〕施食と――それを食べて〔そののち〕、〔生存の〕依り所(身体)という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において完全なる涅槃に到達する、〔行乞の〕施食と――これらの二つの〔行乞の〕施食は、全く等しい果となり、全く等しい報いとなり、他の諸々の〔行乞の〕施食よりも、極端に、より大いなる果ともなれば、より大いなる福利ともなります。

 鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、寿命のために等しく転起する行為が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、色艶のために等しく転起する行為が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、安楽のために等しく転起する行為が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、天上のために等しく転起する行為が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、福徳のために等しく転起する行為が蓄積されました。鍛冶屋の子の尊者チュンダによって、主権のために等しく転起する行為が蓄積されました』と。アーナンダよ、鍛冶屋の子のチュンダの後悔〔の思い〕は、このように取り除かれるべきです」と。

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

 「〔常に〕布施している者に、功徳は増大し、〔常に〕自制している者に、怨恨は蓄積されない。しかして、智者は、悪しき〔行為〕(悪業)を捨棄する。貪りと怒りと迷い(貪瞋痴)の滅尽あることから、彼は、涅槃に到達した者となる」と。

 〔以上が〕第五〔の経〕となる。